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マスメディア(テレビ)の見方

かつてなかったような陰惨な事件やテレビ番組の低俗化を目の当たりにして日本がどこか方向性を失った感がする。多くの若者たちが芸能人や芸人、スポーツ選手にあこがれ地味な努力を嫌うようになってしまった。成功している多くのそういった人たちは相当な地味な努力をしてきたことを不幸にして若者たちは知り得ない。

多くの人を思考停止状態に導いてきたのはマスメディア、特にテレビでスポーツ評論家やファッションに詳しい人、芸能界に詳しい人、さらにはお笑いタレントにコメンテーターを務めさせ、まるでそのことの専門家のように、専門家でないから軽口が言えるのだろうが「ズバッと」とか「スッキリ」とか簡単に結論を決めつけてしまう。手短で、簡単、そして分かりやすいこと、面白けれもっといい。だから機転の利く小説家や漫画家、タレント、お笑い芸人がコメンテーターとして引っ張り出される。長くて、専門的でつまらなければ視聴者はチャンネルを変えてしまう。そうするとスポンサーが逃げてしまう。テレビ局は数字がほしいから、簡単に見て分かりやすい、麻生vs小沢という対決もの、芸能ネタ、スポーツ、おいしい店、大食いネタ、バラエティーが多く盛り込まれる。

さらに気になるのは街の声といって特定の人のコメントを簡単に公共の電波に流してしまう。そう思わない人もいるはずなのにテレビを見た多くの人は「街の声」に少なからず影響されてしまうだろう。大衆が簡単に感覚的な判断をするようになりテレビの感染によって扇動され日本全体がポピュリズムから大衆のファシズムに移行している感が強い。

小泉元首相のすごいところは日本人の二分割思考法の傾向とワンフレーズを巧みに使いマスメディア自体を彼が操作したことだ。「白か黒か今ここではっきり決めなくてはならない」「構造改革なくして発展なし」「痛みに耐える」新聞の見出しになる標語を並べ国民の圧倒的な支持を得た。民営化に反対する人たちを敵に見立て対立の構図を分かりやすくして国民をワイドショーをみる感覚で選挙に足を運ばせた。それに比べると彼に続いた阿部首相、福田首相は小泉首相の言ったことを実践に移さねばならず四苦八苦した。言った本人はこれも嗅覚が利いて小泉チルドレンを置き去りに政界を早々と引退してしまった。実に見事な離れ業だ。これで誰も彼のことを後から非難できない。

後に続いた阿部氏が首相に就任したての頃はマスメディアはまるで彼が芸能人のようにもてはやした。しかし、大臣の人選ミスそして野党との駆け引き、小泉元首相の残務整理が少しでもブレーキになると今度は一斉に猛攻撃に一転する。福田元首相は回りくどい言い方をいするものだからはっきりしないとかズバッとしたものの言い方ができないと言われ、もともと首相の器ではなかったとこき下ろされ何もしてないと判断されてしまう。

今度首相になった麻生首相は多少アキバの人たちやマンガを武器にマスメディアを操作しようとしているが小泉氏ほど上手ではないから結果が気になるところだ。マスメディアは視聴率につながる標的を定めると徹底的に追いつめる。政界では鈴木宗男、田中真紀子氏、企業では数え上げればきりがないが三菱自動車、雪印、不二家、吉兆、中国餃子、事故米、エスカレーターや回転式ドア、エレベーターの事故、公園の遊具での事故、学生が不幸にして自殺すれば学校の責任、とにかく大臣、社長、専務、校長みなが一方的に謝罪、謝罪の毎日である。
マスメディアは世の中の諸悪の根源、それは多くの場合正義の名の下の弱いものいじめであったり視聴率のための標的だが、それを見つけ出し徹底的にたたく。それらを毎日映像で何度も見せられればそれが当たり前になって視聴者はブレーンウォッシュ(洗脳)されてしまう。マスメディアによる脳の退化現象から子供たちを守らないといけない。そのためには大人が「テレビの言ってることはホントかな?」いつも冷静で批判的に見なければならない。
ものごとはいろいろな角度から光を当てれば違った姿が見えてくる。現在はさまざまな大量の情報がある中で思考が鈍化し世の中のできごとを一方的に白か黒か決めつけて、黒を徹底的に攻めようとする。こうした二分割的発想はとても幼稚で危険な現象だ。日本が全体的に浮かれ過ぎで視野が狭くなり発想も短期的で今さえよければいいというダダイスム傾向に向かっている。ばれなければ何でもあり。儲かればいい。視聴率が上がればいい。だから偽装、詐欺、粉飾、やらせに関することばりが昨今のニュースを飾り立てている。



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努力の本質

自分を追い込む力が我慢だと思う。勉強でも習い事でもスポーツでも才能と自分を追い込んだ分だけの努力(我慢)が相互作用しあって結果として表れてくる。たいした努力もしないでも人並み以上の結果が出せたりするのは、おそらくあり得ない。そういう場合は本人が取り組んでいることが本当に好きでかつ才能もあり、いかなる努力も本人は苦労としては捉えていない場合である。好きなことをやっているのだから苦にならないのは当たり前だ。好きなことだけをやっているなら努力という概念は存在し得ず、好きなことを犠牲にして他のことに専念しなければならないことが我慢するとか努力するということだ。

やりたくないことや好きでないことはやらなくてもいいという思想がいつの間にか日本中に蔓延した。さらにその思想がやりたいことや好きなことはなんでもやっていいという発想にまで行き着いてしまった。学校に行きたくなければさまざまな理由もあるだろうが不登校という一番単純な解決策を選択してしまう。嫌いな物があれば食べなくてもいいから好き嫌いが認められ、それが個性としてまかり通ってしまう。授業中に大きな声で話すのも欠伸をするのも鼻をかむのもトイレに行くのも水を飲みに行くのも携帯でメールするのもそれが本人のやりたいことなのだから何の悪気もなく何の躊躇もなく行動に移してしまう。一部の生徒によってなされるこういう行為は他の多くの生徒にとって確実に悪影響を及ぼす。そしてこれを制するだけの権限が教師には与えられていない。これが学校で起こっている現状の一部であることを認めざるを得ない。

義務教育の下になされる教育は子供に勉強を教えるだけでなく同じ程度の道徳教育や躾が施されるべきである。子供は教育を受ける権利があるということはそういうことだ。勉強を教える大前提としての基礎は道徳教育や躾の部分が大きい。しかし、結果主義とゆとり教育が主流となり義務教育においても道徳教育と躾の部分がお座なりにされてしまった。本当は道徳教育、躾が一番生徒に気を遣わなければならない部分で教師の神髄が問われる資質である。

勉強でもスポーツでもほとんどの人がプラトー(plateau):高原の意。技能の学習過程で一時的に進歩が足踏みする状態:を迎える。なぜなら自らの精神のバランスを保つために自分の努力の分量を計ってしまうようになる。つまり、人間の自己防衛本能に従って過度のストレスを避けるためだ。成績を上げるにはここからが最大の問題となる。ストレスを感じずにまたは最小限に抑えて努力の質を上げなければならない。しかし、そのためにはある程度の忍耐力が要求される。その忍耐力は小さいときにしか育てられない。幼いときの枝は柔軟でいかようなる風雨にも耐えられるが、いったん成熟してしまった枝は簡単に折れる。

プラトーからさらに止揚していくためには回りとの相乗効果で苦しい時期を乗り切ることである。マラソンで大勢が走っていたり、また多くの声援が沿道に飛び交うため完走できてしまうのである。すばらしいライバルに恵まれることも才能を伸ばす要因になる。

バウタイムズ08年11月号にも記載したが、心の内にもう一人の理想とするイメージが存在しなくてはならない。そのイメージに近づいたらまた新しい理想のイメージができあがりそのイメージに向かう。実際に理想とするイメージを持てるかどうかが人間としての存在理由としてあるらしい。現在の自分では満足せずにさらなる欲求によって突き動かされる。他人によって楽しませてもらうのではなく、自分が楽しむことによって回りの人たちにも楽しんでもらえる。その精神が時代をリードしていく原動力となる。



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ビジョンを持とう~序破急

米国のリーマンブラザースの経営破綻を契機に世界的な金融恐慌が始まった。実質経済成長ではなく金融経済の株価操作に頼りすぎた結果のバブル崩壊だ。株価が上がり株主が儲かればいいという株価至上主義では企業のコンセプトがぐらつき結果主義、利益追求主義に走らざるを得なくなる。会社を支える従業員は派遣社員が多くなり、設備投資は控えるようになり、目先の利益を取れるだけとれば当然、粉飾、偽装、謝罪のスパイラルが始まる。少数の者だけに利益を集中させるのであればほかの大勢が犠牲になる。それが行き詰まればそのシステムそのものが崩れ始める。格差を肯定したと思ったら今度は格差を是正するという矛盾も生まれる。

今度の不況はおそらく厳しいだろう。不況の嵐に吹き飛ばされないように企業は巨大化することが最大の防衛策だと信じて吸収合併している。しかし、それでも吹き飛ばされると思うと今度は飛ばされてもいいものから切り捨て始める。沈没しかかって必死にもがいている大型客船のようでもある。飛ばされないようにするためには余計なモノは捨てて身を軽くし小さくなることだ。小さく儚い自分を認めることから人間は謙虚さを身につけ生き方を見つけようとする。また身近な人の「死」を通して「生きる」ことを教えられる。人間がこの地上で燃やした夢も理想も死によってあとかたもなく消え去る。人間の一生は無限の宇宙に比べれば星の瞬きにもすぎないことを思い知らされる。

雅楽や能楽などで全体を構成する調子を表す語に「序破急」(じょはきゅう)という言葉がある。「序」は物事の始まりの部分,「破」は細かな変化を含むゆっくりした展開部、「急」は動きの速い終結部でクライマックス部でもある。、「破」の経験がなく、つまり「破」の部分が欠如していて「序」の連続だけで人生を歩んでいる人が多くなったせいで子供じみた大人が目立つ。「破」の部分がない人はまさしく破滅していってしまう。

「破」を受け入れて、経験し自分自身が変わっていく。身近な人の死であったり、旅であったり、個人のコンプレックスであったり挫折であったりする。子供からそういった「破」を奪って自分が子供を守ってあげていると盲信している親も多くなった。

自分の理想とするもう一人の自分を想定し自己実現をしていく姿勢が生きている意味につながる。ユングは人間の心全体の中心を仮定した。それはもう一人の自分を超えた真の自分が存在する。そして意識と無意識を統合する媒介として自己という概念が存在する。つまり人間の心の奥深くにもっと高い可能性を持った「自己」が存在し、それが闇の中を照らす一条の光であり生きる希望であると説いている。

この混乱する世の中でアメリカ合衆国で初めての黒人の大統領が誕生した。230年以上も続いた白人指導の政治にピリオドが打たれた。アメリカ人も既成概念を打破しchange(変革)を求めた結果だろう。アメリカで始まった金融危機が世界にとっての序破急の「破」になるのか破滅の「破」になるのか、バラク・オバマ氏に重責がのしかかる。

アメリカが変わろうとしている今、日本もアメリカ依存型の政治、経済から脱却し、個々がしっかりとビジョンを持ち、それぞれの環境に応じて自己実現を目指して行くところに日本の将来に一条の光が見えてくるだろう。



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迷い

日本の文化は自然を大切にし自然と調和しながら育まれてきた。山の神、川の神、道の神様々の神が日本を見つめ守っていてくれた。先輩や年配の人に教えを請い、彼らに敬意を払って日本独特の縦社会のバランスが保たれてきたと思う。自分が学校でも家庭でも社会でもどこにいるか分かりやすいし、何をすればいいかも迷うことが少なかった。その日本文化の根底思想にあったのが「恥の文化」で縦社会の繋がりからスタートした不平等を時間とともに見事に横社会へと再構築していった。「お陰様で」と言いながら周りの人たちと歩調を合わせ争いをできるだけ避け、ほとんどの日本人が自然な流れの中で裕福な中流家庭へ移行していくことが可能だった。

西洋文化が入ってきてからも日本は上手にそれを取り入れてきた。異文化を吸収する能力は日本人はすばらしい能力を持っている。それが近年になり西洋の一神教を軸とする精神文化と経済戦略が日本に流れ込んできた。すべてが平等からスタートし、自由を与えられ好きなことに挑戦していく西洋の横社会が日本の縦社会を揺るがした。平等からスタートするが時間の経過とともに差がつき不平等になっていく。マラソンのように一位二位三位と順序がつくことが当然であることが前提の平等である。将来的には必ず格差社会が待ち受けているのが分かっているのだから西洋社会の競争は日本の競争とは比べものにならないくらい熾烈で激しいと言われているのも理解できる。西洋社会で挫折したとしても彼らには神がついているので精神的には神を持たない多くの日本人ほどはダメージを受けにくい。

そういう変動期の日本の中で多くの日本人に「迷い」が生まれるのは当然かもしれないと思う。社会の中の大きなブレが子供だけでなく大人も迷わす結果となり、かつては見られなかったような事件が多発しているのだと思う。一二年前に起きたオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件もそのブレの予兆だったのかもしれない。

「四十にして惑わず」という孔子の言葉も今は通用しなくなり「迷い」が若者だけのモラトリアムではなくなった。迷ったら抜け出せない迷宮に入り込んでしまう恐怖さえ感じる。しかし、「迷うこと」によって自分がどこにいるかさらにはっきり分かるようになるし、どっちの方向に向かえばいいか決断できる。迷った果てに自分で出した結論がなければきっと後悔するだろうし、失敗したことを他人のせいにしてしまうかもしれない。

「私は何をすればいいんだろう?」「将来何がしたいんだろう?」いろいろな選択肢が今、与えられているから迷い悩める自分がいる。将来のことで迷えることは私は幸福だと思います。世界中の子供たちが私と同じように勉強ができる環境に置かれていなかったり、自由も平等も与えられているとは限らないからです。

今の私は将来の明確なビジョンはありません。しかし、今私がするべきことは日本だけでなく世界の歴史を学ぶこと、世界の地理を学ぶこと、世界の文化を理解することだと思います。歴史を学ぶことで時間的に、地理を学ぶことで空間的に、文化を理解することで精神的に成長できるからです。大学に行き、チャンスがあれば自分の目で学んだ世界を見て視野を広げ、自分の足、口、手を使い頭で考えていきたいと思う。

否応なく世界が変わろうとしていく中で私は迷いながらも自分を成長させていく努力を続けていくことが自分の迷いから不安を取り去ることであり、迷いから自信へとつなげていけるような気がします。



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反抗期~挫折

73年の歴史で初めて、日本語が母語でない外国人が芥川賞を受賞した。中国人女性の楊逸(ヤンイー)さんは22才で来日して日本語を学び始めた。三作目となる「時が滲む朝」は民主化運動で挫折した青年が天安門事件後に日本に移住し、悩みつつ生きる姿を描いている。

言葉は難しい。国や民族の文化、風習を理解し、習慣に馴染み、その国民に受け入れてもらわねばならない。それは一朝一夕にはできることではないし、まして小説を書いて日本の最高峰といわれる賞まで受賞するとは並大抵の努力ではなしえなかったろう。

文章を書くことは「泳げないのに泳ごうとして、体が浮くように感じる楽しみがある」と語り、日本の若者についてどう思うかと問われ「挫折を知らない」とつぶやいた。多くの日本の子どもは幼いときから甘やかされ、褒められて育てられている日本の教育現状を喝破しているようだ。

最近、子どもの反抗期の中味が変わってきたように感じる。従来の反抗期は、親の言うことや教師のステレオタイプの発言に疑問を感じ、ちょっと自分の考え方と違うんじゃないかと思い始め「個」としての第一歩を歩み始めたものだ。「個」として自己主張をするからにはそこには当然、自己責任がついてくる。親の意見を聞かずに自分の考えを押し通していくわけだから、うまくいかなくても親を恨むわけにはいかない。経験の少ない若者にとってうまくいくことの方が少ない。失敗が繰り返される。失敗の中から第三者の意見を聞くゆとりがでて、自分の感性に鋭敏さが加わり始める。失敗(挫折)からいろいろなことを学び成功につなげる。自己責任とはそういうことだ。青年期はそういう反抗期を経て自己を確立していくために必要な通過儀礼でもあった。

ところが最近、子どもから青年期にかけて反抗期らしいものが見受けられなくなった。子どもには成長に伴い、当然自我が生まれてくる。その自我を通すために無意識に親より立場を上にして自分の欲求をぶつけてくる。それが「すねる」という状態だ。親は自分の言うことを聞かないのが反抗期だと思いこんでしまいがちだが、それは親から自立して自己を確立する種類のものか、またはただ親に自分の欲求を満たさせたいだけの「すねている」ことなのか見きわめないと将来大きな問題が生まれる。自分の言うことを聞いてくれないからといってバスジャックをしてみたり他人に危害を加えたり、親本人にさえ牙をむけてくることになる。

親の過保護と子どもの甘えいう癒着がお互いの「個」の存在を不完全にしてしまった。親は子離れできずに、子どもは親離れできずにいつまでももたれかかりの関係が続いてしまう。さらにテレビは当然ながら、携帯、パソコンの普及によって他人に無関心になった。人の眼を見て直接、話す聞くことの必要がなくなって人の心が分かりにくくなった。今、日本人にとって必要なのは人と人との直接的関わり合いなのかもしれない。

「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ」芥川龍之介は言っている。



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