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脳質改善

  定期試験の二週間ほど前から対策に少しずつ入っていくわけだが、ここから一週間前までがかなり重要で、農業でいう土作りにあたる。この土作りがうまく行けば後は丁寧に育てていくと期待通りの収穫が得られる。しかし、この土作りがうまくできないと、追い込みの一週間で実際の問題に取りかかったとき基本的なミスが多発し、収拾がつかない状態になる。提出物などは解答を見ながら書き込む羽目になり、問題集が赤で染まる。問題に取り組むには正解率が少なくとも85%以上はないと大きな効果は上げられない。ミスをした箇所が15%以下であれば十分な余裕を持って修復が出来る。
それではなぜ土作りの段階で差が生まれてしまうのだろう。最初の講義の聴き方ももちろんかなり重要な役割を担う。しかし、それ以上に個人の意識の差に最大の要因がある。一週間のうちに、これだけはなんとしても100%自分の物にするぞという忍耐力や執念が要求される。いざとなったら、お風呂、トイレ、学校の休み時間や行き帰り、あらゆる時間を駆使して仕上げる努力がなされているのだろうか?

 「子供は褒めて育てる」という育て方が持てはやされたときがある。簡単なフレーズで分かりやすく現代には受け入れやすいのだろうが、これを鵜呑みにしてしまうとあとで大きな落とし穴に嵌ることになる。褒めるのはいいが褒め方が難しい。簡単に褒めては全く逆効果だ。家の仕事でもいい。夏休みの宿題でもいい。本人が気がつかないところをそれとなく指摘し、だんだんと仕上げさせていき、これでもかというくらいまで子供に我慢させる。そして、完成の難しさと達成の喜びを教えなければならない。親がまず我慢する必要がある。

勉強や経験をしたことで頭の中に記憶の島を作ったらその島を移動しなければならない。アクセスが不便な状態で置いておくと当然忘れる。実際の島を動かすのは大変だが頭の中のことだからiパッドの画面を移動するより簡単だろう。
例えば、ライト兄弟は自転車店を営むかたわら飛行機を研究、グライダーによる飛行実験などの後、1903年12月17日ノース・カロライナ州キティ・ホークで12馬力ガソリンエンジンを積んだ複葉機で世界最初の滞空59秒、距離260m動力飛行に成功した。そのことだけを意味なく覚えることは全く無意味で、その事実が歴史の時系列の中でどういう意味を持つのかという位置づけをしなければならない。1904年、日露戦争のときはロシアの連合艦隊を日本海海戦で東郷平八郎が打ち破ったのはまだまだ飛行機が産声を上げたばかりのその1年後。しかし、それから一気に軍艦から戦闘機に戦術が変わっていった。各国がしのぎを削って戦闘機開発に力を注いだ。そしてたった37年後の1941年12月7日日本海軍が戦闘機の威力をハワイのパールハーバーで世界に示すこととなった。ライト兄弟は純粋に空を飛びたいという夢だったかもしれないがそれが戦争という科学の急速な後押しを受けて戦闘機に変わり、今ではステルスや超音波ジェット、民間では大型ジャンボに姿を変えた。
 その次に大事なことは頭脳回路に電流を流すことだ。勉強したことを経験したことをつなげることがもっとも大事で、覚えることに重点を置きすぎると応用の利かない生きた学問にならない。応用が利くとは頭脳の回路がさまざまな方向でつながり情報が飛び交うことだ。どの生徒も一生懸命がんばっているがやり方が個別の問題を解決することに力を集中してそれが交通網が遮断された離れ小島状態になってしまう。勉強したこと経験したことは活躍させるために真ん中に置いてあげないといけない。道路も地下鉄も歩道も空港もヘリポートも用意してあげてどこからでもアクセス出来る状態にしておくことが一番重要だ。否が応でも回路に電流が走る。頭がいいとはまさにこの電流が光通信のように流れることをいう。
 言うのは簡単だが実際にどうすればいいのか。島は目に見えるが島と島をつなぐ回路は目に見えない。だから、若いときこそ目に見えない物を探し求めて実際に旅をしたり、知的探求の作業をするべきだ。それが自分の視野を深遠にし、ビジョンを広げる。道に敷き詰められた落ち葉が秋の終わりと冬の訪れを無造作に告げている。




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知的乾き 茄子?トマト?

学習環境も学習条件も数年前に比べるとかなり良くなっているし、数十年前に比べると比較にならないほど向上した。インターネットの普及はもとより、i-phone、電子辞書、携帯電話に付随しているアプリケーション、CD、DVD、二カ国語対応のテレビなど数十年前の学生から見たら喉から手が出るほど欲しいグッズが目白押しだ。しかし、環境になれることは良いことか悪いことかその価値の有り難さを忘れてしまいがちになる。学生たちはi-phone を身につけ、音楽を常に友とし電子辞書や電子書籍を持ち歩き本当に身軽になった。
最近の流行の言葉の中に「癒し」「潤い」「草食系」がある。乾く前にお肌の手入れをすることは大切なのだろうが、知的探求心は十分に乾かないと自ら作用しない。そういう意味では今の時代、知的乾きのあるヤツは珍しいのかもしれない。便利なものが周りにあふれかえっている。つまらなければ一人で遊べるゲームは山ほどあるし、出かけることなしにインターネットでチャットやアバターなど至れり尽くせりのエンターテイメントだ。わざわざ出かけていって、他人と関わることなく静かに時間をつぶせるようになった。

以前はそういう便利?なモノがなかったおかげで学生はいろいろなところへ自分の足で出かけていって自分の目で見てさまざまな情報を得ることが余儀なくされた。そして、その情報は自分で苦労して探してきたモノだから、とても貴重であると同時に彼らの自信に繋がっていた。学生の目は野生の動物のように美しく輝いていた。潤う目薬などいらず、自身の内から輝く恒星のように生き生きしていた。

我慢してさらに我慢してやっと手に入れたモノこそ本当に自分のものになる。勉強でもスポーツでもどんな習い事でも同じだ。今日、難しいのは我慢する環境をあえて作り出すことだ。何か欲しい物があれば何でも簡単に手に入るので我慢する必要がない。少しでも我慢することになると簡単にキレる。それを心配してさらに物を与えてしまう悪循環が生じる。忍耐力、知的好奇心を向上させること自体が難しいのだ。成績を上げるのに一番大切なこと、それは知的乾きを呼び起こすことだ。

小学校低学年の時、阿寒国立公園の阿寒湖の小さな切手を持っていた。手で持つと指紋が付いたり油が付いたりするので、ピンセットで大切に切手帳から出したり入れたりしていた。なぜなら、そこは子供心に絶対に行けないほどの遙か遠い地の湖だったからに違いない。切手の中の憧れの幻の風景だった。二年前に塾生たちと北海道に行く機会があった。そして極寒の阿寒湖を訪れた時、ふと記憶の幻影の中に埋もれていたあの切手が思い出された。子供の時の記憶と現実が時空を超えた瞬間だった。子供時代、学生時代にどれだけ乾きを経験したかで人生の深みが違ってくる。

今年、ノーベル化学賞を受賞したインディアナ州立パデユー大学で教鞭を執っているアメリカ在住の根岸教授は日本の若者に海外に出て行くことを薦めていた。なぜなら外国で暮らすことは自分に甘えることを決して許してくれない環境を与えてくれるだけでなく、自分を客観的に見ることができる能力をも与えてくれるからだ。
農業に詳しい人から聞いた話だが、茄子は育てるのが本当に手間がかかって難しいそうだ。毎日、茄子の様子を見て、水、肥料を与え日の当たり具合を考えてやっと一人前の茄子になるそうだ。それとは対照的にトマトにはなるべく厳しい環境を与える。水も肥料も最小限、日の当たり具合もほどほどの方がかえっていい。その方が本当に甘い立派なトマトができるそうだ。
日本には茄子の失敗作が多くなって惚け茄子やおたんこ茄子ばかりでは洒落にならない。色つやのいい甘いトマトがどんどん出てきて欲しい。



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いかに学ぶべきか?

2学期制の学校では前期期末試験も終わり、そろそろ成績も出そろってきた。生徒は各自自分なりに努力し、それ相応の結果が得られただろう。しかし、その結果が多少良くても満足することなく、思ったほどよくなかったらさらに反省をし、いずれにしても改善点を見つけ次につなげなくてはいけない。

学習のしかたについて、昨今の生徒の学習方法にムラがあり無駄があるように感じる。先ずは各単元で目標とする学習内容がある。それは当然、指導者が独自のやり方で分かりやすく伝えようとするはずである。そのときに学習者が一番使わなければならないのが目と耳である。指導者の伝えようとすることを手振り身振りを含め、表情、口元を見つめ、言うことに耳を傾けなければならない。この段階で学習者の修得度は決定される。100%理解したのか、80%なのか60%なのか40%以下なのかこの時点である程度決定的な差が生じる。この後、どんなに学習してもこの最初の段階の理解度を超えることは難しくなる。

指導者が何かを伝えようとしているとき、学習者の視線が指導者に向いていない場合、理解度は一気に半減してしまう。それに伴って習得率もさらに悪くなる。こういう学習者の多くは、指導者が話しているときに教科書に目をやっていたり、ノートに何か書いていたり、または何かペンを回していたり、消しゴムをいじっていたりなど、気が散って集中できていなかったり、友達とおしゃべりしていたりする場合が多い。そういう生徒からは「もう一度言ってください。」という発言が多い。

次の段階では理解したはずのことを記憶することが必要となる。記憶すると言っても、最初の段階で指導者の話に視線を逸らさずに集中していれば、学習内容の約80%はすでに記憶されているのだ。何かをスケッチする時に最初の5分から10分のうちにだいたいの構図が描き上がるのと同じだ。その後、木の枝の伸び方だとか、ベンチにどういう人が腰掛けているだとか、池の周りを犬を連れた女性が歩いているかなど細かい部分に注意して描き込まねばならない。これが残りの20%の作業である。この記憶の整理作業は目と脳のイメージ力がリンクされて行われ、学習したことを確認しながら口述し、記憶が定着に向かう。

たいていの場合、ここまでで学習が終了したと勘違いしてペンを置き、脳の活動も終わってしまう。だが、大切なのはここからで学習したことを自分のものにしなければならない。例えば、何かの料理のしかたを教えてもらってそのレシピをもらって安心しているのと同じだ。何度も自分で実験しなければならない。初めは、レシピを見ながらでもいい。ゆっくり丁寧にから次第にレシピを見ずに速く丁寧に出来なければならない。さらには自分で工夫を加え、自分のオリジナルレシピを作り上げて初めて自分のものになり始めたことになる。つまり、指導者の伝えようとすることを自分で実験し、違いやずれを発見、修正、改良して初めて学習が終了したことになる。
多くの学習者は最終段階の自分のものにする過程を行わない。従って、何度も何度も同じミス(たいていの場合は最初の段階の理解していない部分)を繰り返すことになる。砂上に文字を書いたり、図形を描くようなものですぐに風化し、忘却の彼方へ雲散霧消していく。勉強という狭い分野だけではなくスポーツでも、習い事のすべてはコミュニケーションによって成り立つ。もちろん、ある程度の習得後の成長は天性の才能が占める部分が大きくなることは否定できないが、これは、すべての学習行動に共通するプロセスだ。

テレビやインターネットの普及、携帯メール、ゲームなどの通信機器の性能は飛躍的に上がったが、それらは人間のコミュニケーション能力を低下させただけでなく、人間の脳の学習機能も著しく脆弱したものにしてしまった。



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つぶやく日本人

最近、ツイッターという携帯サイトからの書き込みが流行っている。ツイッターは英語でtwitter、つぶやくを意味する。なんでも思ったこと、感じたことをリアルタイムでツイッターサイトに書き込むらしい。ブログよりもコメントが短く、携帯でその場で出来るのが受けているのかもしれない。

「つぶやき」行動は携帯サイトだけではなく日常の中にも見られる現象となってきた。これは最近、授業中に気付くようになったのだが、その場にいる他者のことなどお構いなしにあからさまに関係ない発言をする生徒が目立ってきた。例えば、「あー、腹減った/おなか空いた」「あー、疲れた」「あー、ダリぃ」「わからねぇ」「エー、ムリムリ」などだが、それでは改めて自分の意見を求めると閉口してしまう。そういう「つぶやき発言」をする生徒の多くは成績下位のものが多い。

以前だったら成績下位の生徒は教師に指名されて答えられないと恥ずかしいから黙っていたり、目を逸らしていたりしたものだった。だからかえってそういう生徒が指名されてしまうのだが、ゆとり教育が叫ばれた頃から徐々にその傾向が変わってきた。ある時、テレビを何気なく見ていて気付いた。お笑いタレントがVTRを見ながらするコメントや実際に何かしているときにするコメントに酷似しているのだ。彼らは映像として使ってもらうためにコメントは短く、受けることを言わなければならない。これで謎が解けた。先ほどの生徒たちはテレビの影響を受けてそのまま教室に持ち込んでいるのだ。

ここで注意を払わなければならないのがつぶやきは一方通行の意思表示だということだ。相手のつぶやきにどう反応するかに責任はない。コミュニケーションは相互意思伝達が基本概念で相手の考えを聞いて理解し、自分の考えを伝えていくものだ。今日、日本人が抱えている問題の一つに相互意思伝達および理解が希薄になってきていることがある。それが家庭、友人、学校、職場などで急速に崩壊しつつある。そして、その結果、話し合っていい方向性を示す前に、信じられないような凄惨な事件に繋がってしまうことが多い。

また最近では川柳や謎かけが流行っているらしい。言葉の綾(figure of speech)とすれば面白いがそれが社会風刺でも世相風刺でもなく言葉遊びの域をでていないような気がする。
哲学用語の思索、または思弁は、英語で言うとspeculation(スペキュレイション)だが他の意味で投機を意味する。もともと自然の豊かな日本では自然に身を任せておけば、つまり農耕に精を出していれば食っていけるという考えがあって、畏れ多いのは収穫を左右する自然の驚異で、そこに信仰が集まった。本当の意味での哲学はなかった。

投機を広辞苑で引くと①禅宗で師と弟子のはたらき(機)が一つになること。悟りを開くこと。②損失の危険を冒しながら大きな利益を狙ってする行為。③市価の変動を予想して、その差益を得るために行う売買取引。西洋思想では危険(リスク)を冒してまでも得なければならないことが賞賛に値するもので、西洋諸国もそういう歴史を歩んできた。それを獲得するために考えを巡らし、周到な準備をする。そのための学問であり、乗馬であり、マラソン、ハンマー投げ、やり投げ、格闘技などさまざまな競技があった。

現在、日本には債務が1000兆円、個人資産が1400兆円あると言われている。貯金、預金が好きなのは何かあったら困るという強迫観念からくる日本的な発想に根ざすものだろう。円高だ、少子高齢化だなどのさまざまなネガティブな声に縮こまってないで、すべては陰陽道、ネガティブがあればポジティブも必ず存在する。グローバリゼイションが世界に急速に波及しつつある今、日本にも、日本人にも勇気ある攻めの姿勢が求められている。




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鮭は森へ帰る

連日、酷暑が続く中、日本各地で集中豪雨による被害が報道されている。画面から映し出される映像からはそこがかつて田畑なのか、道路なの想像がつかない。この異常気象現象は日本だけにとどまらない。世界各地でも異常なほどの高温や寒波が報告されている。
情報化が進み、世界中のニュースや事件が刻一刻と得られるがゆえ、それらは専門家と言われる人々に細分化されて解説される。まるでその現象が独立したものでその一点でのみ語られることが多い。
学校の教科書にしても内容削減によってテーマがバラバラに分断され事件の連続性や因果関係が軽く扱われるか無視されている。それを理解しろと言う方が無理がありはしないだろうか。そういった教育を受けた人が日本の中心にいるとすれば、医療でも行政でも教育界でもどの世界でも、自分の分野(数値)だけを見て処理し、それで責任を果たしたように満足する。大海を知らない蛙が大勢をつれて大海へ出て行くようなものだ。
マスコミはニュースや事件、または政治報道に関しても面白いところをキャッチーな見出しで購買部数や視聴率を上げようとする。大衆の興味や関心を引かない事件やニュースばかりでやることがなくなるとおきまりの世論調査をして内閣支持率がどれくらい下がったとしきりに不安感を煽りたてる。
グローバル化が進んでいる中、マスコミこそ国内の事件やニュースばかりでなく、世界の政治、経済がどう変化しているかさらに世界の中の日本がどういう位置にいるのか正確に報道し国民に知らせる義務があるだろう。相撲の野球賭博問題やそれをNHKが放送するだとかしないとか芸能人の結婚だとか河川敷でゴルフをしただとかグルメ情報だとか、あたかもそれらが国民の関心事であるかの扱いだ。

日本が今のままの政治、経済を続けていけばハイパーインフレが近いうちに必ず起きる。

その危機感もないまま、芸能やスポーツ、グルメ情報を見て笑っていられることの方がそら恐ろしい。
現在、1000兆円と言われる日本の借金を返すには日本の人口1200万人で割り算すればいいわけで1000,000,000,000,000円÷120,000,000人=8,300,000円の割り振りになる。つまり、国民一人あたり約830万の負債を背負わされていることになる。一杯500円のラーメンが50,000円にでもなれば1000兆の借金も相対的には10兆くらいの見積もりになるのだから一番手っ取り早いということだ。
あのとき消費税を15%にしておけば良かったと思っても遅いのかもしれない。世界のマーケットは待ってくれない。誰かにババを引かせて自分たちの利益を上げる。つまり、より多くの人に損をさせてより少数の人が巨利を得るというのがグローバリゼイションの正体なのだから。

『鮭もカラフトマスも秋になると川に帰ってくる。母なる川へ、私たちはそう思っている。ところが地元へ行くと案外そういわない人が多い。ここでは鮭は森に帰ってくるのである。その森から流れ出た水の記憶をもとに、母なる森からはじまる川に帰ってくるのだから。
自然は全体で一つの体系をつくりだしている。森は川をつくり、川は海をつくる。数年の回遊を終えて川へ戻ってくる鮭は、その全体の中で生きているのである。それは鮭だけにかぎらない。なぜなら森から流れ出る水にふくまれた吸収しやすいミネラルが植物性プランクトンを繁殖させ、ここにはじまる食物連鎖の世界が、海洋の生物たちをも生育させているのだから。
森を森としてのみ見たのでは十分ではないのである。川を守る森も、海を支えるもりもあって、自然はそのひとつだけで独立してはいない。自然はすべてのバランスの上につくられている。だから森も大地も、川も湿原も、そして海も、連続する自然の世界として一体のもののはずなのである。』

「森にかよう道」 内山 節



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