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杜撰 ~物事の仕方がぞんざいで、手落ちが多いこと(広辞苑)~

強度偽装マンションなどの建築確認で、民間の指定確認検査機関がかなりの数に上る偽造を見落としていた。施工業者、設計士が利益優先主義で招いた住民の不安感・不信感は言うまでもないだろうが既にマンションや個人住宅を購入した人、さらにこれから購入しようと考えている人たちにも建築業界に対して多大な不信感を抱くことになる。調査を進めていけばまだまだ同じような手抜きが発覚し不良住宅が表面化するだろう。日本はいつから拝金主義が大手を振ってまかり通る国になってしまったのだろう。
大手銀行の不良債権、雪印乳業、鳥インフルエンザの鶏肉汚染隠蔽、BSEの国の援助金横領、日本道路公団や社会保険庁の税金無駄遣い、西部グループの汚職、日本歯科医師会の政治献金疑惑、酒造組合の会費の政治家への裏金工作、警察の二重帳簿、厚生省の薬害問題、日本航空の不良整備、文部科学省のゆとり教育の失敗における少年犯罪の多発化やニートの数の増大、外務省の裏金工作や二重高額給与問題。数え上げればきりが無い。どれも天下り官僚と政治家と大手企業の癒着の悪循環だ。
そうなると政治家や官僚のやることに不信感が高まってくる。新型インフルエンザに効くとされているタミフルも本当に効くのかどうか心配になってくる。郵便局が民営化されてもまたどこかで税金が食い物にされるのではないかと心配になってくる。
現在日本の債権は800兆円を超えているといわれている。今度の偽装マンション事件でもおそらく公的資金(税金)が使われるだろう。国からの補助金も使わないと損だとばかり無益なことに使い果たし、その結果、運営費用に年間何億円もの赤字を出す。他人の金だから少しぐらいいいだろうがだんだんエスカレートして巨額の負債となる。
ある町でみなの酒を家から少しずつ持ってきて樽に入れるという話があった。みなが自分の分くらいは薄まっても大丈夫だと思い水を入れた。そしていざ樽を開けて酒を見てみるとすべてが水だった。昔読んだ話を思い出した。
日本人は世界で最も手先が器用だと言われてものづくりに関しては右に出るものがいないほどだと思う。戦後、焼け野原からわずか30年で世界のトップにまで躍り出ることができたのも日本人の頭脳の優秀さに加えて、我慢強さ、手先の器用さがあってのことだ。それが急速に失われつつある。

京都大学の霊長類学者、正高信男教授が日本人がサル化していると警鐘をならす本「携帯を持ったサル」を著している。我慢が効かなくなりすぐキレル大人や子供たち。電子レンジに頼る主婦。鉛筆を使わず、削れない子供たち。そういう子供たちが包丁を器用に使えるようになるとは思えない。より早くてより安いほうが最優先されるインスタント思考に陥るとどうしても手間のかかった丁寧な仕事が疎んじられやすくなる。インスタントも使い方次第でとても便利になる。しかし、インスタント思考一辺倒になると危険だし進歩が無い。インスタントはあくまで即興、即席のことだから間に合わせでしかないのだ。
見栄えだけを求めた、下ごしらえのいい加減な料理。杜撰な基礎工事の建築物。基本ができていないのに応用問題に挑戦する徒労。早急な利を得ようとすると、本末転倒な事態になりかねない。
大切なのは求められるレベルだ。どのくらいおいしい料理を作るのかによって食材費用も時間も手間もかかってくる。何階建ての建物を建てるかによって基礎工事内容も変わってくる。勉強においても何点取りたいか、どのレベルの高校、大学に行きたいかによって基本の学習内容も変わってくる。
目標設定のないプロジェクトなんて有り得ない。適当な目標設定の下では適当な結果しかえられない。まず目標設定をして欲しい。それから、その目標に向かって最大限の努力をするべきだ。目標のある努力は本人にとってさほど苦にならないものだ。いや、かえって苦よりも希望に向かっていく楽しみであるかもしれない。同じ内容を勉強するのなら楽しくやりたいものだ。
現在、日本は多少景気が回復したとはいえ、まだまだ学生にとって就職難だ。大人の社会も雇用削減で大多数の企業が経営を立て直したばかりだ。所得税も消費税も上がる。日本の赤字を考えれば仕方ないかもしれないが、税金の無駄遣いは慎んでもらいたい。
学生の学力低下が叫ばれ、生きる力とか働く意欲の欠如が問題とされるが、それどころではなく、もう取り返しのつかない事態に陥っているような気がする。


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インスタント時代の祭り

山々の木々がうっすらと色づく頃になり、秋の収穫も終わりを迎える頃になると各地方で収穫を祝う祭がとりおこなわれる。祭、それは地縁的共同体の中で、風土と深く関わり合いながら長く培われてきた歴史や伝統、地域信仰や風俗が一つの具象的形体で結節したものだ。伝統文化を確実に世代から世代へと受け継ぎ地縁的共同体の帰属性を再認識し、再構築していくための儀式である。
祭は正月に農耕の豊凶を占うことから始まり、桜の開花を稲作の予兆とする鎮花祭(春祭り)を経て夏の田植え祭、秋の盛大な収穫祭、そして物忌をする冬祭をもって年中行事が締めくくられる。そこにはある種の厳粛性や芸術性、その地域のダイナミズムが横溢していた。
*横溢…溢れるほど盛んなこと

神無月の頃、ほとんどすべての中学校、高校で文化祭や学園祭が行われる。「祭」がつくのだからアカデミックなもの、芸術性のあるものをつい期待してしまうが実情はかなり違う。いつの間にか若者にとっての「祭」は「盛り上がれば良しとする遊び」に意味を変換されてしまったようだ。屋台で焼きそばを売ったり、または間に合わせで何かの展示をするといった程度のモノが多く、これといって「祭」に相当するモノが見あたらない。自分たちだけで盛り上がらないと分かったものは外から金をかけてお笑い芸人や歌手を呼んで盛り上げてもらう。内輪で盛り上がって騒いでそれを成功と勘違いし、それから大人の真似をして「打ち上げ」をする。

学園祭や文化祭を子どもたちだけの自主性に任せすぎた大人の無責任さも問われるべきだ。子どもたちの新しいことに関しての発想は確かにすばらしいものもあるが、はたして伝統文化や伝統芸能に関してはどうだろう。知識も経験もほとんど無である。せっかくやるのなら地域の大人たちや父兄、教師が生徒たちと協力し合って何か一つ本当の成功とよべるものを創ってもらいたいものだ。年長の人からいろいろなことを教えて頂き、感謝して成長していく姿勢が文化を育てていくことでもあり若者を育てていくことでもあるはずだ。そこには人間としての礼節も年長者に対しての敬意も自ずから生まれるだろう。そして自分が伝えてもらったことは確実に次の世代に継承していかねばならない重責も感じる。

大人たちも子どもにどう接したらいいのか迷いがある。今の世の中はインスタント時代だ。なんでもやろうと思えば簡単に手早くできる。つまり、手間をかけずに手を抜くことがいくらでもできる。料理もコンビニや電子レンジの恩恵に預かればさほど手間はかからない。子育てもテレビやゲームやお稽古ごとで代用してしまう。『子は親の鑑』と言うが子どもには親の似て欲しくないところがよくでてしまう。宿題でも手っ取り早く済ましてしまおうとする悪習がつく。勉強でも分かったような気がしてつい端折ってしまう。それを飲み込みが早いとか理解力があると見るのはたいてい親にもそういう傾向があるからだ。

実はそこに大きな落とし穴がある。学習とは早合点しないことが第一だ。特にテストで優秀な点が取りたければ、普通こんなところは飛ばしていくだろうというところをこそスピードを落として確実に内容を把握していかなければならない。基本と応用、それに難しいところはテストに出るものだ。問題は残りの数パーセント。それは分かったつもりになっているところから出題される。盲点をつかれる。つまり、ポイントはものぐさをせずにきちんと一から十まで隅々まで目を通して理解しておくことだ。頭がいいからいい点が取れるのではない。手を抜かないからいい点が取れるのだ。頭が悪いからいい点が取れないのではない。ものぐさをして適当に手早く済ませたから、いい点に結びつかないだけだ。

伝統文化も学問も過去の先人たちが苦労して築き上げてきた財産だ。それを分かったつもりになって切り花のように扱っては申し訳ない。その目に見えない地中の根の部分や幹に刻まれた年輪の厚みを感じながら文化も学問も大切に扱っていきたいものだ。


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想像から創造へ

人間は生まれてから日々成長している。身体的にも大きくなるがそれとともに精神的成長もみられる。身体的に大きくなるとより行動的になり積極的にもなる。それと呼応するように、精神的成長は、より広くなった行動範囲に安全を、より積極的になった姿勢に知性を与える。

自分の行動範囲を年齢とともに重ね合わせてみるとおもしろい。幼少時代の行動範囲は家の周りを少しだけ歩く程度だろう。それが少年時代になると自転車にまたがり隣町くらいまで行動範囲が広がる。中学生ともなるとバスや電車でさらに遠くまで足を伸ばす。高校生は足を伸ばした先で滞在できるかも知れない。それ以上になるとバイクや車が手に入り自由にどこへでも行けるようになる。日本は島国だから外国となると飛行機を選ぶようになり、行動範囲は飛躍的な広がりを見せる。ダイナミズムが生まれる。
* ダイナミズム(dynamism)自然界の根源を可能力(デュミナス)とし、これを物質、運動、存在など一切の原理であると主張する立場。

学ぶということは行動範囲を広げる上で必要条件なのだ。知性がないのに行動範囲を広げるというのは、どこに危険があるのか知らずに危険地帯を歩くようなものだ。したがって学ぶことをあきらめてしまったりやめてしまったとすれば自ずから行動範囲も狭くなり人間的成長も止まる。普段の生活の場所で生きていくことが余儀なくされ、それで満足するしかない。

暴走族がなわばりの中だけで横暴な運転をするのと同じだ。ニートが5年後には一〇〇万人を超えると言われている。学ぶことをやめて自分の行動範囲を狭めてしまった結果、彼らのなわばりである家から出たがらないのも自己防衛本能から考えれば当然なのだ。自分の巣から飛び立つ勇気のない哀れな雛のようだ。しかし子どもに巣立ちをさせられない親の責任も重い。

人間は個人であり孤独であり一人である。どの人間も、「座って半畳、寝て一畳」だ。人間を分数にして考えてみよう。分数には分母と分子がある。分母が人間の行動範囲を表す。どこまで行っても人間は一人である限り1だから分子も当然分母と同じ数になる。分子は分母と対応して同数となる。分子は行動範囲から得られる情報量や経験値を示す。同じ1でも人間的成長の広がりを持つダイナミックな1と成長が止まり限りなくゼロに近づいていく1とでは大きな差違がある。人間のスケールが違ってくる。

人間を個体として見ると確かに小さい存在に過ぎない。しかし、頭脳の側面から見ると無限に近い広がりがある。建築物ではピラミッドや万里の長城、バチカンのサン=ピエトロ寺院大聖堂、法隆寺。音楽ではモーツアルトやバッハ、ベートーベンなどの天才がすばらしい遺産を現代に残した。さらに莫大な量の情報を管理したり処理できる能力を持つコンピューターも人間の頭脳から創られた。一九〇三年にライト兄弟が初飛行に成功してわずか70年で人類は月までたどり着いた。つまり、人間には想像から創造へと移行させる力が備わっている。

9月11日の衆議院議員総選挙は小泉自民党の大勝利に終わった。郵政民営化が国民から支持された形になった。しかし、これからまだ何年もかけて郵政を民営化していくのだからまだまだ先の長い話だ。現代はある意味で超高速情報処理時代なのだ。もっと大胆で画期的な構想はできないものか? 民営化でも国営化でもどうでもいいことだ。日本のように国土面積が比較的小さく、しかもIT産業が発達しているのだから公共事業としてNTTや郵政省、国土交通省、関連各省に協力を呼びかけて日本全土を光通信で結ぶという発想はないのだろうか? ソフトバンクやライブドアより先にネット産業を国営で行えば赤字国債も飛躍的に減るし国のインフラ化としも無限のポテンシャル(潜在性能力)を持つことになる。国民がみな分かる程度の改革ではなく、国民をリードしていく改革であって欲しい。国会議員も官僚も頭脳明晰なシンクタンクであって欲しい。


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国語ができるには~人の話を聞こう~

国語に関してよく本を読めば国語ができるようになるとか、本を読まないから国語ができないとかいろいろな諸説がある。新聞の社説や天声人語や編集手帳などのコラムを切り取らせて感想や要約させる手法も多くとられている。どれも何らかの効果があるとは思うがどうも的を射ていないような気がする。
国語とはそもそも他人の書いた文章を読んで彼・彼女の言いたいことを理解したり共感したりするものである。理解するには相手の主張を認めたり、譲歩したり、反論したりすることが必要となる。そのためには自分の視点が欲しい。自分の考えや意見と照らし合わせてみて、ずれているところ、共有するところを確認しなければならないからだ。その自分の視点とはどうやって築いていくのだろうか。もちろん本から学んで築いていくことも多々あるだろう。それゆえ本を読めとか、新聞を読んだ方がいいとか言われるのだ。
しかし、本を読む前に人との対話があるはずだ。現代の生活において対話が非常に少なくなってはいないだろうか。テレビやゲームは向こうから一方的にメッセージが流れてくる。携帯電話やメールの普及によって言葉が急速に簡略化されている。親子の対話、友人同士の対話なども簡略化されてはいないだろうか。読書も確かに影響力はあるがどちらかというと受動的だし、テレビなどはかえって影響力が強すぎる。いい番組もあるだろうが非常に少ない。いい番組は番組制作に費用がかかるからだ。簡単に視聴率を稼げるので、どぎつくてモラルの欠けているものが大手を振ってまかり通っている。そういう生活の中で育っている子供が国語ができないのは至極当たり前のことで、自分の主張や意見を持って努力できるなんて非常に希有で奇跡に近いのではないだろうか。
他人の話をきちんと聞く習慣が身に付いていないから他人が話しているときに平気で手悪さしたり、おしゃべりをするのだ。自分の意見を言うために他人の話を聞かねばならない。他人の話を聞かせる習慣をつける第一歩は家庭です。家庭が子供にとっての第一の学校なのだ。対話の中で親は自分の歴史観や自然観、さらには人生観までも語っていいと思う。学校にすべて任せるのではなくまずは家庭教育を行うべきではないでしょうか。集中力をつけるのは学校という集団の中ではなく家庭内や個人の経験の方が重要な役割をするものだ。

自分をコントロールすることによってリラックスと集中力を使い分けていくこともとても大切です。何かを覚えたり理解したりするためにはかなりの集中力を要する。普段からリラックスと集中力の振り幅を広げておいて欲しい。その振り幅が小さいから中途半端なリラックスと頼りない集中力しか持ち得ないことになる。よく学び、よく遊びの精神は普遍的な金言なのかもしれない。具体的な集中力のつけ方は短時間で記憶する習慣をつけることです。ちょっと挑戦してみて下さい。漢字の読み方です!できたら意味もいっしょに覚えよう。(制限時間2分)

1隠蔽(物事を隠すこと)
2烏有に帰す(すべてなくなること)
3嗚咽(むせび泣くこと)
4傀儡(あやつり人形)
5驥尾に付す(優れた人の後ろに付く)
6逆鱗に触れる(天子の怒り)
7暫時(しばらくの間)
8漆黒(黒くて光沢があること)
9凋落(落ちぶれること)
10磊落(快活で心が広い)

解答
1いんぺい2うゆうにきす3おえつ4かいらい5きびにふす6げきりんにふれる7ざんじ8しっこく9ちょうらく10らいらく

国語は教科としては漢字の読み書き、語句の意味、ことわざ、故事成語などの知識に関する問題から論説文の読解、古典、俳句、短歌,詩の観賞があります。特に国語ができない生徒は論説文の読解を苦手としています。論説文はほとんどの場合が日本人の自然観やものの考え方、そして日本の文化、日本人と自然のかかわりなどのテーマです。つまり、国語とは日本の歴史、文化、言語などを通じて日本や日本人のことを再考し、自分のアイデンティティー(自己同一性)を発見することなのです。
日本は終戦を迎えて60年の歳月が経とうとしています。その間に経済は発展してきましたが敗戦という名の下に自虐的な精神を植えつけられました。日本のいいところや日本人のよさも敗戦とともに奪われてしまいました。この夏、日本の政治も大きく変わろうとしています。さまざまなことをいろいろな視点から家族で対話していただくといいと思います。


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ルーティーンを作れ

日常の生活の中で人は決まった流れの中でほとんど無意識に同じ行動様式をとっている。それを英語ではルーティン(rouotine)と言うが和製英語ではパターンと言っている。どのような複雑な仕事も作業も必ずルーティンがある。そのルーティンを習得したものが専門家としてやっていけるのだろう。学習とはそのルーティンを習得することであって研究とは新しいルーティンを見いだすことである。

学生が通常行っている勉強はかなり古典的な要素を多く含んでいて皆が思うほどたいしたことはない。なぜならそれらは大抵、何十年も前に、ひょっとすると何百年も前に発見されたルーティンだからである。ほとんど舗装された道を行くようなものだから真面目に取り組んでいさえすればさほど問題はないはずである。

ルーティンの語源はルート(route)、「切り開かれた道」、ルーティンは「いつもの小道」という意味だ。いつも行く道ならば間違うことも滅多にないだろうし、危険な箇所も肝心な箇所も要領を得ているだろう。学習とはまさにそのことで数学の方程式、微分積分、外国語、さらには楽器、スポーツさえもルーティンで成り立っている。医者の手術にしても決められたルーティンを速く正確にこなしているに過ぎない。F1のレーサーにしてもハンドル操作、アクセルワーク、ブレーキワーク、状況判断など彼らが持つ独自のルーティンがなせる技なのだ。イチローのバッティングにしても彼の持つ独自のルーティンのおかげであれだけの成績を収めている。料理にしても下ごしらえから始まり、火加減、塩加減、手加減がルーティンとなっておいしい料理に仕上がっていく。そこに迷いがあってはならない。一般人が簡単に真似ができないルーティンだからこそ希少価値のある高いレベルのルーティンとして認められているのだ。

成績を今より上げたいのならば今とは違ったルーティンを作らなければならない。試験前にいつもと同じ道を歩めばいつもと同じような結果にたどり着くに違いない。自分の成績が今一歩のところで足踏み状態ならばルーティンを変えなければならない。それなりのルーティンをこなさなければ満足いく結果は得られるはずがない。

「勉強のやり方が分からない」という声をよく耳にする。それは「ルーティンの作り方が分からない」のではないだろうか。目をつぶっていても歯は磨けるだろうし、あまり考えなくても学校から家まで帰ってこられるだろう。どうしても難しいと思われる問題があったら迷いがなくなるまで取り組めばいい。目をつぶってもイメージが湧いてきてイメージの中でシミュレーション(模擬実験)ができないといけない。問題を見ただけで解法の手順が思い浮かび、解答までのルートが切り開かれていく。試験前には、一度やった問題は数秒でシミュレーションできるようにしなければならない。まずイメージの中で成功しないと現実での成功はあまり期待できない。

ルーティンを支えているのはイメージなのだ。こんな感じでというイメージで何事も始まる。イメージを思い浮かべながら、あるいは手引き書を見て戸惑いながら現実が具現化していく。そして、次第に慣れてきて先行するイメージとそれに続く現実がほぼ同時に行われるようになる。同時性が重ね合わされば合わさるほどそれは高次元のルーティンとなり匠の技になりうるのだろう。

いかなる所作(職業)にしても必ず何らかのルーティンがあるのなら自分の好きなルートを選んでいきたいものだ。やっているうちに慣れてしまえばたいしたことがないのなら慣れるまでの辛抱。何事も新しいルート(道)を切り開くのは大変だ。しかし、自分のルート(人生)は後戻りできないから頑張ってルーティンを作っていかなければならない。
英語のことわざにPracticemakes perfect.習うより慣れよ、というのがある。練習を重ねていけば完璧になるということだ。夏休みを前に自分のルーティンを考えて、それを実践していきましょう。


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