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負けてたまるか 今に見ていろ!

総合学習の時間を設けてゆとり教育を進めてきて「生きる力」を育てるはずであった。それが見事に正反対の結果を導いてしまった。自ら生きる力を失って他人のせいにする老獪ぶりを学んでしまった。競争をなくすという大義名分ばかりのゆとり教育のもとで社会には自由競争が激化し格差が広がった。そのギャップの中でニートの数が60万人を超えている。フリーターや派遣社員の数は500万人を超えている。

なぜ日本は自分の大切な文化をいとも簡単に切り捨ててしまったのだろう? 戦後のアメリカ合衆国の日本復興プロジェクトに乗って経済的には確実に成長した。しかし、その経済繁栄もアメリカがまいた種だから収穫はもちろんアメリカがすることになっている。日本各地に米軍基地が配置され、日本の民間機が肩身の狭い思いをして飛ばさせてもらっているのが現状だ。日本国憲法をアメリカに作ってもらいそれを後生大事に国家のバイブルのように信じている人も多い。アメリカの核の下にありながら非核三原則を唱えているのは周囲からは虎の威を借る金持ちの狐のように見えるのではないだろうか?

アメリカによる日本復興プロジェクトは大成功を収め日本はアメリカの文字通りドル箱となった。しかし、アメリカの思惑以上に日本は成長した。それは日本の教育制度がアメリカの予想を遙かに越えて充実していたからにほかならない。「読み書きそろばん」を基本とする日本の教育の基本姿勢は世界一の頭脳集団を造りだした。これにはアメリカだけでなく世界も驚いた。しかし、どんなシステムも改良の余地はある。アメリカにその間隙をつかれた。あまりにも完成度の高い教育システムは無機質で画一的な生徒を作りだしているかのように見えた。そして次第に国民が裕福になるにつれ教育制度が崩され始めた。もっとゆとりのある学習こそ人間性を豊かにし、個性を伸ばし生きる力を育てることができるのだと。今もなお小学生から英語学習を入れるべきだという妄信的な信念を持っている人が多い。戦時中の植民地政策の延長戦がいまだに続いていることは驚きだ。日本の街がアメリカの街に変わってしまった。

個人の人権だ、女性の人権だ、子どもの人権だ、加害者の人権だのと人権宣言が再び登場してから日本の社会制度もぐらついた。いつの間にか人権王国になってしまっている。このままでは人権闘争が起きて世界有数の訴訟国になる。そのために日本は裁判員制度をいそいでいる。

子ども人権主義がいつの間にか子ども中心主義に取って代わって大人が子どものレベルまで成り下がってしまった。いわゆる俄教育評論家が「子ども視線でものを見て」などともっともらしいことを言うとマスコミがそれを盛り上げた。子どものためにおいしい朝ご飯とおいしいお弁当を作り、父親よりもおいしい夕食をだすことがいい母親であるかのごとく煽り立てた。自らが親の座から降りて子どもの顔色を覗うざまになった。父親は子どもとたわいもない話などしなくていい。肝心なときの鶴の一声でいい。

親として子どもに伝えなければならないこと。それは品格だ。他人の大勢いるところでは騒がない、他人に迷惑をかけてはいけない。礼儀作法も、食事作法も以前は家庭で教えた。その延長に学校があり教師も威厳を持ち生徒から信頼を受ける関係が成立していた。今は親の方の品格が崩れ始めている。

人間が強く優しくなれるための条件として厳しくつらい人生体験が絶対に必要不可欠である。厳しい経験が人間を強くし、つらい経験が人間を優しく成長させる。打たれて揉まれて人間は我慢を覚え、我慢という漆黒の闇の中から一条の陽光を感じ取ることができる。その一条の陽光こそ第二の人生の始まりだと言える。愛おしく、温かい希望の光を感じた弱々しい小さな芽が大空に向かって微かな成長が始まる。「負けてたまるか、今に見ていろ!」と歯を食いしばりながら健気に生き始める。



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BAU 頭が良くなる方法

最近では頭脳を鍛える新図書や自己啓発本が書店を賑わしている。またゲーム機でも頭脳を鍛える計算力や記憶力を衰えさせないようなものも考案されている。もちろん、何もしないよりそういったものを利用して少しでも頭脳を鍛える努力することはいいことだ。

しかし、普段の学習の中でどうやれば頭がよくなるのだろうか? それは自分の頭脳と闘うことだ。人間の頭脳は二種類ある。物事を分析、推測、理解する脳(ここではA脳と呼ぶ)とそれを記憶する脳だ。(B脳)そしてそれらは密接な関係がある。なるべく自分のA脳だけで分析、推測、理解を行うことだ。自分のA脳を働かせた分だけ記憶するためのB脳が楽をすることができる。他人から簡単に分かりやすく教えてもらうとA脳のはたらきが鈍くなりそれと連動してB脳のはたらきもさらに鈍化してしまう。ここが一般の人が勘違い、誤解している最大のポイントである。

「あの先生の授業は分かり易くて丁寧に教えてくれていいのよね。」というお母さんの声が聞こえてくるが「でもすぐ忘れますよ。」という声でお返ししたい。
「うちの子はあの先生の授業よく分からないって言ってるんだけどだいじょうぶかしら。」「答をすぐに教えてくれない先生の方が忍耐も技術もいるんですよ。子どもが自分で調べているなら一番いい勉強です。」

時間に追われてすぐ答を求めてくるタイプの人は学習には不向きである。推測もしないで思いつきで安易な答を出すからそっちゅう間違える。何度も同じ間違えをする羽目になる。そういうタイプの人に何度も丁寧に解説し本人が分かったと言ってもそれは糠に釘。砂浜に文字を書くのと同じで波が来れば跡形もなく消え去る運命。落ち着いて学習の成果が出せるタイプの人にするには時間をかけて人間を改造しなければならない。

さてあなたは?あなたの子どもはどういうタイプ?もし学習に不向きなタイプならまず簡単に答を聞きたがらないで自分で億劫がらずに推測し、間違えをおそれずに解答を出してみることをしなければならない。記述式の問題で白紙の解答が目立って多いのはそういうタイプの人が多いということだ。すぐに解答を知りたがるから「面接の受け方」「論文の書き方」「簡単にできる~」などのマニュアル本が流行る。

頭脳も人間の身体の一部であるから自分が休みたいために楽をすることを要求する。その場限りであるという前提ならば簡単に分かりやすく教えてもらうに越したことはない。しかし、学習が自分の身につけなければならないという宿命を負っている限り簡単に分かりやすく教えてもらうことはかえってマイナス要因になる。後に何も残らない。結果的には自分で苦労して手に入れたものしか本当に役立つ知識にはなってくれない。ここで「苦労」と言ったが「楽しんで」手に入れる学習習慣を身につけることだ。

自分の持っている知識を最大限に活用して間違ってるかも知れないけれどいくつかの推論を出す。そこから物事を推測する楽しみが生まれる。インスタントの時代に育ってしまった人は間違うことを嫌う。間違うことは時間の無駄だと感じてしまう。間違うことを嫌う結果A脳が鍛えられずB脳も機能が低下していく。これが現代人の典型的な頭脳である。間違って失敗した中からの経験はすべてが役に立つ。
料理でも幾度も失敗して自分の味を出していく。失敗を恐れてインスタント食品に頼ってしまう人は絶対に料理の腕は上がらない。



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マスコミの一点集中報道の危険性 過度な自由と過度の束縛

飲酒運転による事故、違反が連日報道され、あたかも事故は飲酒だけが一番の原因でその一点だけを取り上げていれば視聴率が上がり雑誌の購買数も伸びると思っているマスコミ関係者が多い。飲酒運転はもちろん違反で危険な行為なのだがそれだけを重点的に取り上げることによって他の危険運転につながる意識が薄らいでしまうことになる。相変わらず携帯で電話やメールをしながら運転しているもの、たばこを吸いながら運転しているもの、違法駐車や窓からたばこの吸い殻や空き缶、ペットボトルなどを捨てるなどのマナーの悪い運転をするもの、チャイルドシートもしないで子どもが車内をうろうろしているのに平気で携帯を操作しながらハンドルを握っている若い女性もしばしば見かける。そういう違反も同様に報道し改善に向けて世論を喚起し法制度も改善していくべきだろう。

一点にスポットライトを当てて周りをぼかしてしまう手法は個性をなくして自分で考えることのできなくなった人を洗脳し誘導するには最適なのかも知れない。特にテレビの映像は瞬間的に情報を流し込んでくるので頭の中にすり込まれてしまいやすい。テレビコメンテーターという人たちのコメントは本当に怖い。その怖さを知らずに思ったことを口にするからさらに怖い。彼らの一言は薬にもなるし劇薬にもなる。靖国神社の参拝に関してもA級戦犯にしても他国の感情を考えてという意見が大半を占めたが最大の戦争責任はもっと違うところにあるかもしれないと誰も口に出せない。ジャーナリズムの基本はある現実をさらけ出し、その問題を深く考えて、その是非を世間に問いただし改善されるべきものは改善していくというものだ。

今のマスコミの多くはコメンテーターという人たちがあたかも国民の代表であるかのようにコメントしてしまっている。あの民放のコメンテーターという人たちをどうにかしてもらえないものだろうか。テレビの危険性はテレビの方から押し売りのように遠慮なく情報を送り続けてくるということだ。新聞、雑誌はそれを選ぶ時間も読むのをやめる時間もある。しかし、テレビは視聴者に考えさせること停止させて無思考状態ででチャンネルを変えずにいてくれることを臨んでいる。

アメリカの牛肉が日本に輸入再開されてアメリカの牛肉を使用した牛丼店に並ぶ客たちがどの放送局でも大きく取り上げていた。自分でおいしいと思っていく人は自己判断でいくのだからいいがまだBSE問題にまだ不安を持っている人がいる中での牛丼店を支持する人が多い報道はやはり偏っているように感じる。どこからかの圧力があったと考えるのはちょっと気の回しすぎだろうか。

入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だとして東京都立の高校や養護学校の教職員が都教委を相手に訴訟を起こしその判決が東京地裁であった。「少数者の思想、良心の自由を侵害する」といった判決が下された。その判決を養護するメディアも反論する立場を取ったメディアもあった。しかし、公務員である教職員が協調性がなくチームワークが取れないのを目にする生徒の当惑が危惧される。

自由を拡大解釈していった結果が今の日本を導いてきた。次にやってくるのが自由と法律の闘い。つまり訴訟大国。そのための準備は着々と進んでいる。陪審員制度の導入、ロースクールが開校され新司法試験によって門戸が広がった。アメリカなどのセクハラ問題で数十億円の慰謝料請求や会社を訴えて多額の賠償金をぶんどる手法、結婚時に弁護士を入れて離婚時のトラブルを防ぐ手法がもうそこまできているのかも知れない。アメリカのカルファルニア州では温暖化の原因として大手車会社6社に数十億ドルの訴訟を起こした。車の恩恵に預かっておいて厳しい排ガス規制もクリアさせておいて今度は違反金を取って州の税収に充てようというのだからたまったものではない。

そんなに過度な自由は求めなければそれを取り締まる束縛も過度になる必要はない。しかし、当然そこにはモラル(道徳心)が求められた。譲り合う精神がすり減った日本は住みにくい世の中になっていくのだろうか。美しい国、日本を取り戻したい。



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薄れゆく人間性 ~利便性の追求と成果主義の功罪~

人間性が失われていく。少しでも気に入らないことがあるとキレて自宅に放火してしまう事件が連続して起きている。火をつける行為は直接は殺人に結びつかないだろうという安易な短絡思考がそういう犯罪を増長させるのだろう。それは弱者の論理で相手に意見が直接言えなかったり自分に対して不当と思われる事態が起きたときの反逆行為の象徴だ。放火事件はテロの範疇に入れてもいいだろう。子どもが親を殺したり、親が子どもを殺したりという信じられない事件も続く。本来なら一番の絆で結ばれていなければならない家庭までもが崩壊しつつある。企業の相次ぐ偽装事件、自衛隊の機密漏洩事件、岐阜県の裏金事件、学級崩壊。そしてついに家庭にまで崩壊の悪循環のスパイラルは進んでしまった。

希薄なまたは濃密すぎるアンバランスな親子関係がそういった事件の温床となっている点に留意してもらいたい。つまり放任と過干渉だ。自立できない子ども、自立させてあげられない親。そういう家庭が増えている。子どもは幼児の時は当然親の保護のもとで生きている。面倒を見てもらっている状態から次第に子どもが成長してくると親の手元から離れて自分でできることは自分でするようになる。親から離れるのも不安で怖いが自分の主張も通したい。その葛藤が自我意識の芽生えであり、同時にその軋轢が反抗期である。

その微妙な動物的本能によるバランス感覚がまず大人の側、親の側から崩れてしまった。子どもに携帯を持たせておけばとりあえず安心だという半放任主義的な親の姿勢が子どもの自立を歪曲して助長させてしまった。歪曲した形の自立を個性と取り違えてしまった。子どもの葛藤、軋轢を受けとめる社会の受け皿の幅も狭くなったのかも知れない。携帯で見知らぬ人と簡単に出会えて親密になれるような錯覚に陥り、心の隙間を埋めていく。人間関係なんてそんなに一朝一夕に構築できるわけがない。一緒に苦労したり、泣いたり笑ったりしながらだんだんと信頼関係を深めて理解しあえていくものだ。刹那的な快楽主義はやはり人間の心の隙をつきやすく犯罪の温床となる。

バランスの崩れた親子関係においては子どもが小さいうちは子育てがうまくいかないことに腹を立てる親が場当たり的な愛情のない体罰を子どもに与えてしまう。これはもう親が自立できていないのだから問題外。子どもを車中において遊戯に耽る親や子どもの横でたばこを吸う親たちは子どもを産み育てる資格がない。小さい頃から子どもを自立させる方向に歩ませなかった家庭では不登校や引きこもりという状況が生まれる。何年もかけてそういう状況を作ったのだから状況の変化は容易ではない。自立させようという親の思いが子どもに伝わらず子ども側からしてみると「なんで自分だけがプレッシャー(成績)をかけられ、いやなこと(勉強)を強制されるんだ」という疑問が解けないまま不満から憎悪に変わってしまう。家族で改めて「自立するということ」「なぜ勉強しなければならないか」ひいては「人生とは」などについて折に触れて話してみたい。

子どももいろいろなお稽古ごと習い事で忙しいだろうが、ピアノ、空手、サッカー、スイミングなどいろいろあるがまずそろばんを習わせて欲しい。その次に習字。きれいな字で丁寧に書くことは自分を大切にすることにつながる。自分を大切にできないものは他人を大切に扱えるわけがない。やはり「読み書きそろばん」が基礎力となる。

「世の中勝てばいいんやろう!」の自己本位主義と成果主義が席巻する中、甲子園の決勝戦を延長15回まで闘い抜き、再試合でも最後まで堂々と闘い抜いた高校球児たちの笑顔が日本中にさわやかな風を吹かせた。その大会に地方大会から参加しすばらしい大会を作り上げた高校生一人一人に拍手を送りたい。
「ヒーローは僕じゃない。みんな一人一人がすばらしい仲間なんだ。」マスコミが派手に騒ぐ中そんな声が聞こえてくるような気がする。若者に教えられることもたくさんある。



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次世代に向けて才能・勇気・努力を備えよ

才能は英語でタレント(talent)、またはギフト(gift)と言い語源的には天賦の才のことを指す。才能は磨くものではなく神から与えられた特別な能力を見いだすものらしい。残念ながら多くの人は短い人生の中で自分の才能を見つけられずに死んでいく。勉強とは自分の才能を発見するためのものである。自分の中にある天賦の才は、意地悪くてなかなかここにあるよとは教えてくれない。重くて厚い扉の向こうにあるかも知れないし、何気なくそっと誰も気づかないところに置かれているかも知れない。これが本物だと思っても偽物をつかまされていることだってある。運良く自分の天賦の才にめぐり逢えた人を天才と呼ぶのだ。彼らは普通の人が絶対にできないことをいとも簡単にこなしてしまう超能力を持っている。

天賦の才を生かした職業を英語でジョブ(job) やプロフェッション(profession)とは異なりコーリング(calling)と言う。まさに神のお召しに答えたと言えよう。そういう職業にたどり着ける人はまれで、たいていは現実の仕事になんらかの不平、不満を持っていたりするものだ。自分の好きでもない仕事を仕方なくやっている人が大勢を占めるのだ。
一時は国内の大手メーカーや中小工場などが安い労働力を求めて海外移転を推し進めてきたが、次第に国内回帰の動きが見られてきた。「ものづくり日本の復活」「景気回復の兆し」と歓迎される一方で、新たな日本の低賃金請負労働者の数が増大した。大手製造業の工場で「偽装請負」と呼ばれる違法な労働形態が広がっている。メーカーにとっては外部から受け入れた労働者を低賃金で、安全責任も曖昧なまま使えるうえ、いらなくなったら簡単にクビを切れる。ようするに派遣型社員は現在400万人いるといわれている。建築業でも食品業でも偽装、偽装と騒がれたと思ったら今度は製造業。次はなんだろうと勘ぐってしまう。

小泉政権が推し進めてきた構造改革とは格差社会を肯定しそれを民衆に納得させたものだった。日本人の多くは自分が中流階級以上だと思いこんでいる。しかしそこに大きな盲点があった。自分たちが中流階級でいられるためには子どもの時からのしっかりした教育がなされなければならない。そこから「ゆとり教育路線」で切り崩されてしまった。一見景気がよくなったように見えるがそれは格差社会が安定期に入ったと見ていい。貧しい側に回ってしまった人はこれから押し寄せる増税、消費税栗アップ、医療費の値上げ、お金がなくなってからの日銀の0金利政策の打ち切りに耐えなくてはならない。

「再チャレンジ制度」などときれい事を言っているがその程度のとってつけたような子供だましの政策は焼け石に水にすぎない。日本の格差社会に対して否定的な意見を持つならしっかり自分の意見を主張しないと間に合わなくなる。一番基礎である高度な教育を受ける機会をゆとり教育から取り戻さないと下流社会の輪廻から抜け出せなくなる。
集団行動が得意の日本人は一人で行動する勇気少し足らないかもしれない。確かに知人や友人と一緒に行動すれば楽しいときもあるし安心だ。しかし、周りに合わせすぎて自分の意見や主張を言いづらい。他人に合わせて食事を取ったり食べるものも気を使ったり、行く場所、見るものすべてなんらかの制約が多くかかる。それに新しい人との出会いや触れあいも一人の時に較べて減ってくるだろう。買い物でも図書館へ行って勉強するのもたまには一人で行動する勇気を持って出かけてみてはどうか。他人に迎合しすぎると自分を持つことを躊躇しやすくなる。

努力とは我慢することのできる忍耐力だ。「がんばって」という声をよくかけたりかけられたりするがそれはすなわち「どこまでも忍耐して努力する」ことにほかならない。「がんばって」は「がまんして」と思わなければならない。しかし、最近の「がんばる」には忍耐が欠けてきている。なにか運任せのような気の抜けたような軽いニュアンスさえする。決断の意志が弱いとなにかにつけできない理由を探し出すものだ。何かを成し遂げるにはそんなに簡単にいくはずがない。必ず越えなければならない壁が立ちふさがる。その壁を自分で越えられる力が努力なのだ。たいして困難な状況でないときにがんばる必要はないのだ。

人間一人一人がんばり時がある。その時に自分の才能、勇気そして努力が必要とされる。中高生は夏休みもだんだんと終わりに近づくにつれて前期期末試験が見えてくる。そろそろペースをあげてがんばり時にはいるほうがいいだろう。自分に与えられた才能を発見するためにもやるときはやらないと必ず後悔することになる。



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