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努力と才能 たくさん詰め込んでおこう

学習とは脳の中に詰め込んだ情報を整理して使えるようにすることである限り情報としての知識は詰め込まれていなければならない。何もないところからは何も生まれない。幼児期から小学生くらいの期間は生活の中でさまざまな情報を取り入れる一番大切な時期だということは前号のBAUタイムズで既述した。小学校の学習は情報収集と言うより事象の概念を学んだり、考え方を重要視しているので一般教養的な基礎知識は各家庭に任されていることを前提に考えなければならない。
中学ともなると必要な情報の供与とともに情報処理、情報の保存、そして情報を利用した応用が求められてくる。日本の教育が「詰め込み教育」「偏差値偏重主義」「学歴社会」などと悪のイメージが先行され「ゆとり教育」に路線を変更してしまったがそれがうまく機能せずに頓挫してしまった。多少の改善は必要だったが「ゆとり教育」は行き過ぎてしまった。もともと日本の小学生の学習内容など前から十分にゆとりがあったのだから。
学習のプロセスを理解してどこがうまく機能していないかをチェックする必要がある。与えられる情報量が多すぎて理解できないのであれば情報処理能力の不足であり早くも学習の限界を迎える。情報処理能力は幼児期から小学生くらいまでに飛躍的に発達する。その時期を逃すとバージョンアップ(英語ではアップグレードと言う)は難しい。
情報処理した情報の保存が正確にできないと応用の段階で致命的なミスを犯す可能性がある。つまり誤解である。人間の脳とコンピューターの決定的な相違点は人間の思いこみである。それは環境条件や過去の経験などによって生じる不可避なる「刷り込み操作」だ。可能な限り0%に近づけようとする意識が求められる。それこそが試験であり、入試である。特に理数系に関してはミスに対して徹底的な検証が必要だ。それに反して語学や芸術系の科目ではミスをしながらミスを発見し矯正していけばいい。「習うより慣れよ」が大切。慣れるまで習えることが実は難しいのだが。

それでは具体的な事例でミスの起きる状況を見てみよう。
1 問題をよく読まず「え、そんなこと書いてあった?」最低限の情報も受け取れていない状態。普段から落ち着きがなくそそっかしい性格。ゆっくり正確に読み取る練習や字を丁寧に書く習慣をつけたい。忘れ物も多く学校の提出物も未提出になりがち。家の手伝いもきちんとさせて親が必ずチェックした方がいいでしょう。
2 問題をきちんと読んでも解法に結びつかないのは情報の処理が不十分でまた出直してこなければならない。「分かった気になっている」状態。本人が「分かった、分かった」とか「もう大丈夫」などと言うものだから親も安心してしまう。そして返ってきた結果を見て本人も親もがっかりするパターン。自分の情報処理能力を認識し正確な自己分析が求められる。間違えた問題は当然ながら、一度できた問題でも後でもう一度完全にできるかどうかチェックする学習習慣を身につけなければならない。
3 問題もきちんと読んで解法に向かって進んでいるが思いこみによって出てくる解答が違ってくる。このレベルはまあまあの得点が期待できるが試験の本質が分からないといつもこの落とし穴にはまる。思いこんだら最後、二度と後戻りができず試験時間中、勘違いの世界に浸ることになる。物事を大局的に判断し分析する能力が求められる。「ちょっと待って、これ違うんじゃないか」あらゆる状況を判断し自分を批判的に冷静に客観視できないと超えられないレベル。自分の持っている情報量だけで判断する習慣があると陥りやすい。食べ物の好き嫌いや食わず嫌いの性格に多い。常に人間の幅を広げようとし頭脳を柔軟にしておくことが大切。
人に物事を教えるということはその人の持っているものを引き出すこと。お互いの努力によって才能を見つけ引き出すことだ。だから努力なしに才能の発掘はないし、才能なくして成長はない。運動能力の優れた人はどんなスポーツをしてもある程度のレベルに達する。



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家庭でできる基礎学力のつけ方 ご父兄の方へ/ 高学年の生徒へ

いよいよ新年度が始まる。みんな不安と期待を胸に新しいステージに立とうとしている。この新鮮な気持ちを維持していきたいがなかなかそうはいかない。「慣れ」がそのモチベーションを低下させていくのだ。仕事でも勉強でも次第に追われる状況に追い込まれ余裕がなくなる。春休み期間は教科書もまだ開かなくてもいいし開いたとしても無理に学習する必要はない。だから楽しいのだ。人間の毎日はプレッシャー(ストレス)との闘いでもある。プレッシャーは「しなければならない」状況に追い込まれて大きくなり本来の実力が発揮できなくなる。スポーツでも勉強でも追い込まれてからの追い込みでは集中力よりもプレッシャーが大きくなり、あまりいい結果は期待できない。

プレッシャーのない時期にいろいろなことを学習しておくことが余裕を生み出す。プレッシャーのない時期は学校で教科書や問題集が用意される前、すなわち家庭の生活習慣に他ならない。それは家で学校の予習や復習、テスト勉強をすることではない。学校の学習は義務的で社会に出て行くのに最低限度のものだからあまり当てにしてはいけない。小学生にちょっとした質問をしてみて分からないことがあると「まだ学校で習っていない」と言って知らないことが当然のような態度をとるものが多い。学校で初めて習ってそれらを覚えなければならないとすればそれは大変な努力を要するし、かなり不可能に近い作業になる。

本来なら学校以外の場所である程度の知識、経験、教養を身につけておいて学校で出会う学習でそれらを論理的に整理していったり理解を深めていくことが望ましい。基礎体力、基本的運動能力のある子供はどんなスポーツをしても上手くこなせるのと同じで、基礎学力のある子供はどんなことを学習させても伸びていく。

それでは具体的に家庭でできる基礎学力の身につけ方を提案しておきます。

①テレビ番組を選ぶ。「ダーウィンが来た」とか「世界遺産」など。
②漢字の読みをテレビ、新聞から抜き出して読ませる。読めなければノートに漢字だけ書き出しておいてまた後で確認する。ちょっとしたゲーム感覚で楽しくやることが大切。
③日本地図、世界地図、または地球儀をリビングのすぐ手の届くところにおいてテレビなどで地名が出たら位置を確認してみる。ついでに周りの情報も収集しておく。
④トイレや風呂場にことわざや雑学の雑誌を置いておく。
⑤旅行などに連れて行く場合必ず事前に図書館で調査をさせる。さらに旅行の後で新しい発見を聞いてみる。旅は行く前から始まっているし帰った後も楽しめる。
⑥子供が小さいときは自分の部屋で勉強させないでリビングの片隅で静かにやらせる。
⑦子供の部屋にテレビがあるのは絶対だめだしゲームも無制限にさせるのは問題外です。何もないのが一番の学習環境です。
⑧自分でできることは自分でやらせる。朝起こさない習慣。食べたものの片付け、家庭での仕事の役割(風呂掃除など)をきちんと責任を持ってやらせる。そうすると学校での提出物などの未提出がなくなります。
⑨親ができることできないことをきちんと説明して理解させる。必要以上のことは子供をひ弱にするだけでなく独立心をも希薄にしてしまいます。親には親の子供には子供の人生がある。
⑩子供がスポーツで負けたときや試験で思うような結果が得られないときや何かに失敗したときこそ、親が最大のサポーターになって下さい。「よくやったよ、お父さん(お母さん)はお前の努力はすばらしいと思うよ。またがんばろうな!」

Bauは子供一人一人の自分の第二の家庭であり心の落ち着く場所、そしてサポーターでありたいと願っております。



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変化-完璧を目指して

教育現場の空洞化、学力の低下、さらに犯罪の低年齢化が叫ばれている中、子どもに一番必要なことは自分の存在感。
存在感とは自分の存在を認めてもらい他者との関わりを持つことです。愛情と厳しさを宿したやさしいまなざしで自分を見守ってもらうことを欲しています。
反抗期も自己の確立をする上で必要な時期なのですが、それは同時に自分のバランスを計るための挑戦でもあるのです。
未熟ゆえつい過剰に反応してしまったり反発したりします。ところが、甘やかして育ててしまい自由を与えすぎてしまうと、その反抗に対応できず手をこまねいてしまうのが現状。学校でも教師が体当たりで生徒に向かっていける状況ではないので完全に機能停止状態。

今日の子どもたにとっての居場所は深夜まで営業しているカラオケボックスやコンビニ、スーパーの駐車場であったり、あまり親がうるさくない友達の家。あるいは携帯電話やパソコンを利用したメール仲間とのつながりの中で自分を見つけているのです。そういった場所で自分の存在をアピールしているのです。子供は成長も早いように環境に順応するのも早いのです。しばらく見ていないうちに身長があっという間に大きくなったり、髪の毛が変色していたり耳にピアスしていたり驚かされる。外見だけでなく中身の方も成長してくれると頼もしくもあるのですが案外内実が伴っていないことが多い。それは多くの若者が省略言葉に慣れてしまい、彼らの語彙はさらに減少し、思考の基盤となる言語力不足を招いてしまっている。簡略化されたアイコンのような絵文字も彼らの行動を単調化して個性を失わせている。言葉を省略すると言うことは自分の存在を軽視することになる。

例えば自分の家を建ててもらおうというときに設計士や建築家の簡単な説明だけで満足するのでしょうか。基礎はどうなっているか、間取りは、収納は、水回りは、など綿密な打ち合わせをするはずです。一カ所でも手を抜かれれば不愉快な気持ちになると思います。自己表現、自己実現は家を建てることに似ている。一カ所でも杜撰な箇所があればそこが将来的にネックとなる。特に基礎が大事。なぜなら基礎は修復がきかないから。焦らず時間がかかるところはじっくりしなければない。確実に自分の足元を固めてから次の段階へと進んでいくことが基本なのです。

自由と不自由のはざまの中で自分の存在を見つけていくことが社会性を身につけていくこと。そして自由を得るためにはそれ相当の努力が必要であることを身をもって理解せねばならない。社会に出ればいろいろなことがある。甘やかされていれば現実の厳しさにこっぴどくやられてしまう。与えられた課題に全力で取り組みベストを尽くす姿勢は子供の時から培われなければならない。

後期期末試験が終わった。結果はどうだったろう? その結果に満足しているのだろうか? 結果に変化は現れているのだろうか? 結果に変化を出すということは原因である自分を変えない限り起こり得ない。いつものようにしていればいつもの結果しか出ない。何点があなたの目標点かよく考えて欲しい。中途半端な得点で満足することに慣れてしまっていないだろうか。自分自身が中途半端になってはいないだろうか。

Bauでは、全員の生徒に100点を目標にして欲しい。欲を言えば120点を取って欲しい。「問題がちょっと簡単過ぎてもうちょっと手強い問題も欲しかったなあ。」100点の答案を持ってそう考えてもらいたい。今自分ができるすべてのことを尽くしてパーフェクトを狙う。それが変化につながる。あれもしたい、これもしたい、あれが欲しい、これが欲しいというのは与えられた課題が完璧になってからのこと。もし、今回の試験の結果に不満足ならば、原因を検証する必要がある。完璧を目指していたか。時間が足らず準備不足だったのか? それなら好きなことをする時間を削って準備時間に充てたのか? トイレに入っている時間、お風呂に入っている時間、登下校の時間、食事の時間、休み時間は利用したか? 学習の方法を工夫したか? 何かを変えなければ進化はしない。変えた分だけの結果がついてくる。

完璧を目指していても人間のやることにはどこかにミスがある。それはある意味で仕方のないこと。しかし、完璧を目指していない人間のミスは手抜き。杜撰なだけ。これから先どんな仕事を任されてもたいした結果は絶対に出せない。そして大切な仕事も絶対回ってこない。



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地方再生の兆し 1

政府の教育再生会議は1/19日、首相官邸で合同分科会を開き、ゆとり教育の見直し、教育委員会改革の実施などを柱とする第一次報告案を大筋で了承し、24日の総会で正式決定する。それにしても官僚は自分たちののやることに対しては決して自分の非を認めることはなく、あれだけ教育、ひいては日本に負の遺産を残したにもかかわらず「見直し」と言うだけで幕を引こうとしている。全体責任は無責任の屁理屈がまかり通ってしまうから恐ろしい。

ゆとり教育の失敗の原点は学習と研究のプロセスの混同にある。学習とは他人の研究結果のパターンを正確に学び自分のものにすることである。つまりパターンを詰め込むことにほかならない。パターンを丸暗記することだ。研究とは新しいパターンを見つけること。例えば新薬の開発や最新のロボット工学、遺伝子工学などにおいて自由な発想や創造力が必要となる。研究者は他人のパターンをすべて学び終えた人だけがなれる特殊な専門職である。そこがぶれた。

国内において経済格差が広がっているがそれは多くの国民が今の政党を支持してしまったのだからある程度、仕方ない。こんな筈ではなかったという訳にはいかない。しかし、教育に関しては被害を受けるのは子どもたちである。子どもたちに負の遺産を押しつけてはいけない。大人たちが子どもたちの規範となり他人の迷惑になることはしてはいけないことを示し、さらには他人を思いやる気持ちを見せてあげる必要があった。大人たちが目先の欲に囚われ問題を先送りした結果、国も地方も疲弊した。国からの国庫支出金をあてにして無計画な箱物を作る。一時は潤うが運営がうまくいかないからまたさらなる負債を生む。まるでお金の薬物中毒だ。群馬県の伊勢崎市でも現在ある観覧車を撤去してまでも新しい観覧車を作るという。無意味を越えてあきれた悪政だ。借金は誰が払うのだろうか。ゆとり教育の時と同じで責任は誰にもないことになる。

ゆとり教育の号令の下に、惜しげもなく考えもなく世界一の教育制度を捨ててしまった。もちろん完璧な制度などどこにもない。そのつど時代の変化に対応して変えていけばよかったはずだ。それを「受験戦争」だとか「詰め込み教育」「偏差値」「学歴社会」とかイメージの悪いフレーズを並べ立てられ、一気に方向転換して改悪に踏み切ってしまった。「美しい日本」は聞こえはいいがサブタイトルに「自信のない心の貧しい日本」と言われているようでならない。

日本が戦争に負けてアメリカの思惑通り精神面まで腐食させられてしまった。戦後の日本の奇跡的な復活は、負けてたまるかの魂の持ち主たちの手でなされたものだ。時代の流れとともにそういう大和魂も風食していってしまった。
日本は地下資源が乏しいのだから未加工のまま世界に売り出せるものは何もない。世界に立ち向かえることができるものは世界一優秀な頭脳と世界一器用な職人技しかあるまい。それも戦後の経済復興に全力を尽くして頂いた人々のおかげなのだ。それさえも世界に引けを取るようであれば日本の将来は急速に翳りを見せるだろう。

宮崎県知事に元タレントの東国原英夫氏が無党派層の支持を得て次席に7万票の大差で当選した。相次ぐ談合や知事の汚職、官僚指導の拙策に県民がNOを叩きつけた。これが宮崎ショックとなりマニフェストで候補者を選ぶ選挙が各地に広がれば地方が変わり始めるかも知れない。

北海道夕張市が経済破綻をして国の管理下に置かれることになり、その結果今年度の成人式の予算が1万円となった。しかし、夕張の若者たちは自分たちで手作りの思い出に残る成人式をあげることができた。その反面、現状視察の大義名分で議員たちが夕張市を訪れたがそんな予算があるなら成人式に回してあげた方がどんなに効果的か考えてみた方がいい。地方も与えられる側から夕張市の成人式のように自分たちの手で築きあげていくような積極的な姿勢が求められてくるだろう。

お国の事情はそれぞれ違うだろうが日本にとって何が大切なのか、日本人が失ってしまったものは何か、各人が落ち着いて熟慮しなければ「美しかった幻の国日本」になりかねない。



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開いた教育を目指して ~個性を伸ばす~

今日の日本はいやおうなくどんどん二極化の方向に向かっている。ビッグバン(グローバリゼイション)の結果、経済面でも大企業から大きな変革の波を受け、それが次第に中小企業、零細企業への波紋が市町村合併、そして市民生活にまで及んだ。競争することがあたかも人間性を否定するかのごとく扱われてきた教育界ではその競争の波は増幅して影響を及ぼした。学校教育も方向性を見失い、何を基本として教えていけばいいのか戸惑い焦った。そして必修科目未履修問題といった単位偽装事件が起きてしまった。
個人主義が発達している欧米でもややもすると利己主義とほぼ変わらない部分も見受けられる。しかし、欧米には家庭教育や宗教の影響によって2つの主義の間のギリギリのラインを保っている。日本は家庭教育の子どもに及ぼす力が脆弱化し宗教もほとんど影響力を持たない。唯一学校が子どもを厳しく愛情を持って育てる場であったのだがそれさえも放棄してしまった。日本から子どもを育てる場がなくなった。
そういった教育ではある方向性が生まれる。自分を守るためには他人と違った考えを持ったり、行動を取っては危険だ。協調性がなく異端児だと見なされる。群れに入れないものははじかれる。群れることによって自分の存在を確認し群れの中でしか自分の安心できる居場所が得られなくなる。それは個の力が弱くなったせいで以前より依存性が高くなり密接な連帯感を求めるようになるからで、それが携帯のメル友の登録件数や出会い系サイトに見られる特徴である。群れからはずれるのが怖いから懸命に自分の外見を気にする。派手な化粧も、分不相応な高級ブランドも群れの中心に近づくための無意識な行動だ。プリクラという友達と仲良く写ったような写真も自分が仲間と一緒だという証なのだ。やたら分厚いプリクラ手帳みたいなものを常備し、それを異様なほど大切にし、友達に見せ合って自分はこんなに群れの中心にいるのだとアピールし安心感を得る。しかし、いったん群れから外に出ると外部に対して極端に無頓着、無関心になる。他人のことなどお構いなしで大きな声で携帯電話で話したり、人前で化粧をしたり、迷惑行為もしがちになってしまう。

個の力が弱いのでもたれかかっているため人間関係のバランスも悪い。ちょっとのことでぐらつき自分が群れからはじかれまいとして、他人を犠牲にしてまでも連帯感を保つ。精神的疎外感を受けやすく被害者意識も強くなってしまう。アキバ系、体育会系とかギャル族、暴走族とかいうが、~系とか~族というのは群れの代名詞。群れることによって自分の力以上のものを得たような錯覚に陥り一種の恍惚感に浸れる。しかし、一人の力は極めて弱く単独行動ができない傾向になってしまう。同じグループだけに属していると自ずから視座が低くなり視野も狭くなる。その結果他人と違う考え方を認めにくくなりステレオタイプの型にはまった思考回路、行動パターンになる。
開いた教育は個人を強くし、違いを認め合うことを可能にする。ある程度の距離感を保ち自分の自由時間を自由空間を確保できる。個としての自由時間と自由空間があるためバランスが取りやすく多少のぐらつきにも対応できる。自分の考えが基軸としてあるため他人の考えを冷静に判断でき彼らを容認することができる。自と他がはっきり区別でき違った対象として受けとめることが可能なのだ。経験を積めば積むほどたくさんの人と出会い自他の違いを感じ、見つけ、受け入れていく術を知る。そし他人と違う自分を発見し個性を伸ばすことの基本を造る。
反対に閉じた教育では周りと同じでありたいという同化現象を引き起こし時間が無駄に過ぎ、たいした経験も積めず常に他人の中に共通点を見つけようとしてしまう。そこでは自他が違うことに抵抗を感じ、他人と違うことをすることや間違えることに対して恐怖心も抱いてしまう。畢竟、世間が狭くなる。
自分の課題に挑戦し間違えの中から試行錯誤し自分なりの結果を導き出せる能力を身につける。本来、学校とはそういう場所であり、教育とは自己実現の基盤とならなければならないはずだ。さらに人間いくつになっても個性を伸ばして行くことを怠ってはいけないのかもしれない。



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負けてたまるか 今に見ていろ!

総合学習の時間を設けてゆとり教育を進めてきて「生きる力」を育てるはずであった。それが見事に正反対の結果を導いてしまった。自ら生きる力を失って他人のせいにする老獪ぶりを学んでしまった。競争をなくすという大義名分ばかりのゆとり教育のもとで社会には自由競争が激化し格差が広がった。そのギャップの中でニートの数が60万人を超えている。フリーターや派遣社員の数は500万人を超えている。

なぜ日本は自分の大切な文化をいとも簡単に切り捨ててしまったのだろう? 戦後のアメリカ合衆国の日本復興プロジェクトに乗って経済的には確実に成長した。しかし、その経済繁栄もアメリカがまいた種だから収穫はもちろんアメリカがすることになっている。日本各地に米軍基地が配置され、日本の民間機が肩身の狭い思いをして飛ばさせてもらっているのが現状だ。日本国憲法をアメリカに作ってもらいそれを後生大事に国家のバイブルのように信じている人も多い。アメリカの核の下にありながら非核三原則を唱えているのは周囲からは虎の威を借る金持ちの狐のように見えるのではないだろうか?

アメリカによる日本復興プロジェクトは大成功を収め日本はアメリカの文字通りドル箱となった。しかし、アメリカの思惑以上に日本は成長した。それは日本の教育制度がアメリカの予想を遙かに越えて充実していたからにほかならない。「読み書きそろばん」を基本とする日本の教育の基本姿勢は世界一の頭脳集団を造りだした。これにはアメリカだけでなく世界も驚いた。しかし、どんなシステムも改良の余地はある。アメリカにその間隙をつかれた。あまりにも完成度の高い教育システムは無機質で画一的な生徒を作りだしているかのように見えた。そして次第に国民が裕福になるにつれ教育制度が崩され始めた。もっとゆとりのある学習こそ人間性を豊かにし、個性を伸ばし生きる力を育てることができるのだと。今もなお小学生から英語学習を入れるべきだという妄信的な信念を持っている人が多い。戦時中の植民地政策の延長戦がいまだに続いていることは驚きだ。日本の街がアメリカの街に変わってしまった。

個人の人権だ、女性の人権だ、子どもの人権だ、加害者の人権だのと人権宣言が再び登場してから日本の社会制度もぐらついた。いつの間にか人権王国になってしまっている。このままでは人権闘争が起きて世界有数の訴訟国になる。そのために日本は裁判員制度をいそいでいる。

子ども人権主義がいつの間にか子ども中心主義に取って代わって大人が子どものレベルまで成り下がってしまった。いわゆる俄教育評論家が「子ども視線でものを見て」などともっともらしいことを言うとマスコミがそれを盛り上げた。子どものためにおいしい朝ご飯とおいしいお弁当を作り、父親よりもおいしい夕食をだすことがいい母親であるかのごとく煽り立てた。自らが親の座から降りて子どもの顔色を覗うざまになった。父親は子どもとたわいもない話などしなくていい。肝心なときの鶴の一声でいい。

親として子どもに伝えなければならないこと。それは品格だ。他人の大勢いるところでは騒がない、他人に迷惑をかけてはいけない。礼儀作法も、食事作法も以前は家庭で教えた。その延長に学校があり教師も威厳を持ち生徒から信頼を受ける関係が成立していた。今は親の方の品格が崩れ始めている。

人間が強く優しくなれるための条件として厳しくつらい人生体験が絶対に必要不可欠である。厳しい経験が人間を強くし、つらい経験が人間を優しく成長させる。打たれて揉まれて人間は我慢を覚え、我慢という漆黒の闇の中から一条の陽光を感じ取ることができる。その一条の陽光こそ第二の人生の始まりだと言える。愛おしく、温かい希望の光を感じた弱々しい小さな芽が大空に向かって微かな成長が始まる。「負けてたまるか、今に見ていろ!」と歯を食いしばりながら健気に生き始める。



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BAU 頭が良くなる方法

最近では頭脳を鍛える新図書や自己啓発本が書店を賑わしている。またゲーム機でも頭脳を鍛える計算力や記憶力を衰えさせないようなものも考案されている。もちろん、何もしないよりそういったものを利用して少しでも頭脳を鍛える努力することはいいことだ。

しかし、普段の学習の中でどうやれば頭がよくなるのだろうか? それは自分の頭脳と闘うことだ。人間の頭脳は二種類ある。物事を分析、推測、理解する脳(ここではA脳と呼ぶ)とそれを記憶する脳だ。(B脳)そしてそれらは密接な関係がある。なるべく自分のA脳だけで分析、推測、理解を行うことだ。自分のA脳を働かせた分だけ記憶するためのB脳が楽をすることができる。他人から簡単に分かりやすく教えてもらうとA脳のはたらきが鈍くなりそれと連動してB脳のはたらきもさらに鈍化してしまう。ここが一般の人が勘違い、誤解している最大のポイントである。

「あの先生の授業は分かり易くて丁寧に教えてくれていいのよね。」というお母さんの声が聞こえてくるが「でもすぐ忘れますよ。」という声でお返ししたい。
「うちの子はあの先生の授業よく分からないって言ってるんだけどだいじょうぶかしら。」「答をすぐに教えてくれない先生の方が忍耐も技術もいるんですよ。子どもが自分で調べているなら一番いい勉強です。」

時間に追われてすぐ答を求めてくるタイプの人は学習には不向きである。推測もしないで思いつきで安易な答を出すからそっちゅう間違える。何度も同じ間違えをする羽目になる。そういうタイプの人に何度も丁寧に解説し本人が分かったと言ってもそれは糠に釘。砂浜に文字を書くのと同じで波が来れば跡形もなく消え去る運命。落ち着いて学習の成果が出せるタイプの人にするには時間をかけて人間を改造しなければならない。

さてあなたは?あなたの子どもはどういうタイプ?もし学習に不向きなタイプならまず簡単に答を聞きたがらないで自分で億劫がらずに推測し、間違えをおそれずに解答を出してみることをしなければならない。記述式の問題で白紙の解答が目立って多いのはそういうタイプの人が多いということだ。すぐに解答を知りたがるから「面接の受け方」「論文の書き方」「簡単にできる~」などのマニュアル本が流行る。

頭脳も人間の身体の一部であるから自分が休みたいために楽をすることを要求する。その場限りであるという前提ならば簡単に分かりやすく教えてもらうに越したことはない。しかし、学習が自分の身につけなければならないという宿命を負っている限り簡単に分かりやすく教えてもらうことはかえってマイナス要因になる。後に何も残らない。結果的には自分で苦労して手に入れたものしか本当に役立つ知識にはなってくれない。ここで「苦労」と言ったが「楽しんで」手に入れる学習習慣を身につけることだ。

自分の持っている知識を最大限に活用して間違ってるかも知れないけれどいくつかの推論を出す。そこから物事を推測する楽しみが生まれる。インスタントの時代に育ってしまった人は間違うことを嫌う。間違うことは時間の無駄だと感じてしまう。間違うことを嫌う結果A脳が鍛えられずB脳も機能が低下していく。これが現代人の典型的な頭脳である。間違って失敗した中からの経験はすべてが役に立つ。
料理でも幾度も失敗して自分の味を出していく。失敗を恐れてインスタント食品に頼ってしまう人は絶対に料理の腕は上がらない。



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マスコミの一点集中報道の危険性 過度な自由と過度の束縛

飲酒運転による事故、違反が連日報道され、あたかも事故は飲酒だけが一番の原因でその一点だけを取り上げていれば視聴率が上がり雑誌の購買数も伸びると思っているマスコミ関係者が多い。飲酒運転はもちろん違反で危険な行為なのだがそれだけを重点的に取り上げることによって他の危険運転につながる意識が薄らいでしまうことになる。相変わらず携帯で電話やメールをしながら運転しているもの、たばこを吸いながら運転しているもの、違法駐車や窓からたばこの吸い殻や空き缶、ペットボトルなどを捨てるなどのマナーの悪い運転をするもの、チャイルドシートもしないで子どもが車内をうろうろしているのに平気で携帯を操作しながらハンドルを握っている若い女性もしばしば見かける。そういう違反も同様に報道し改善に向けて世論を喚起し法制度も改善していくべきだろう。

一点にスポットライトを当てて周りをぼかしてしまう手法は個性をなくして自分で考えることのできなくなった人を洗脳し誘導するには最適なのかも知れない。特にテレビの映像は瞬間的に情報を流し込んでくるので頭の中にすり込まれてしまいやすい。テレビコメンテーターという人たちのコメントは本当に怖い。その怖さを知らずに思ったことを口にするからさらに怖い。彼らの一言は薬にもなるし劇薬にもなる。靖国神社の参拝に関してもA級戦犯にしても他国の感情を考えてという意見が大半を占めたが最大の戦争責任はもっと違うところにあるかもしれないと誰も口に出せない。ジャーナリズムの基本はある現実をさらけ出し、その問題を深く考えて、その是非を世間に問いただし改善されるべきものは改善していくというものだ。

今のマスコミの多くはコメンテーターという人たちがあたかも国民の代表であるかのようにコメントしてしまっている。あの民放のコメンテーターという人たちをどうにかしてもらえないものだろうか。テレビの危険性はテレビの方から押し売りのように遠慮なく情報を送り続けてくるということだ。新聞、雑誌はそれを選ぶ時間も読むのをやめる時間もある。しかし、テレビは視聴者に考えさせること停止させて無思考状態ででチャンネルを変えずにいてくれることを臨んでいる。

アメリカの牛肉が日本に輸入再開されてアメリカの牛肉を使用した牛丼店に並ぶ客たちがどの放送局でも大きく取り上げていた。自分でおいしいと思っていく人は自己判断でいくのだからいいがまだBSE問題にまだ不安を持っている人がいる中での牛丼店を支持する人が多い報道はやはり偏っているように感じる。どこからかの圧力があったと考えるのはちょっと気の回しすぎだろうか。

入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だとして東京都立の高校や養護学校の教職員が都教委を相手に訴訟を起こしその判決が東京地裁であった。「少数者の思想、良心の自由を侵害する」といった判決が下された。その判決を養護するメディアも反論する立場を取ったメディアもあった。しかし、公務員である教職員が協調性がなくチームワークが取れないのを目にする生徒の当惑が危惧される。

自由を拡大解釈していった結果が今の日本を導いてきた。次にやってくるのが自由と法律の闘い。つまり訴訟大国。そのための準備は着々と進んでいる。陪審員制度の導入、ロースクールが開校され新司法試験によって門戸が広がった。アメリカなどのセクハラ問題で数十億円の慰謝料請求や会社を訴えて多額の賠償金をぶんどる手法、結婚時に弁護士を入れて離婚時のトラブルを防ぐ手法がもうそこまできているのかも知れない。アメリカのカルファルニア州では温暖化の原因として大手車会社6社に数十億ドルの訴訟を起こした。車の恩恵に預かっておいて厳しい排ガス規制もクリアさせておいて今度は違反金を取って州の税収に充てようというのだからたまったものではない。

そんなに過度な自由は求めなければそれを取り締まる束縛も過度になる必要はない。しかし、当然そこにはモラル(道徳心)が求められた。譲り合う精神がすり減った日本は住みにくい世の中になっていくのだろうか。美しい国、日本を取り戻したい。



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薄れゆく人間性 ~利便性の追求と成果主義の功罪~

人間性が失われていく。少しでも気に入らないことがあるとキレて自宅に放火してしまう事件が連続して起きている。火をつける行為は直接は殺人に結びつかないだろうという安易な短絡思考がそういう犯罪を増長させるのだろう。それは弱者の論理で相手に意見が直接言えなかったり自分に対して不当と思われる事態が起きたときの反逆行為の象徴だ。放火事件はテロの範疇に入れてもいいだろう。子どもが親を殺したり、親が子どもを殺したりという信じられない事件も続く。本来なら一番の絆で結ばれていなければならない家庭までもが崩壊しつつある。企業の相次ぐ偽装事件、自衛隊の機密漏洩事件、岐阜県の裏金事件、学級崩壊。そしてついに家庭にまで崩壊の悪循環のスパイラルは進んでしまった。

希薄なまたは濃密すぎるアンバランスな親子関係がそういった事件の温床となっている点に留意してもらいたい。つまり放任と過干渉だ。自立できない子ども、自立させてあげられない親。そういう家庭が増えている。子どもは幼児の時は当然親の保護のもとで生きている。面倒を見てもらっている状態から次第に子どもが成長してくると親の手元から離れて自分でできることは自分でするようになる。親から離れるのも不安で怖いが自分の主張も通したい。その葛藤が自我意識の芽生えであり、同時にその軋轢が反抗期である。

その微妙な動物的本能によるバランス感覚がまず大人の側、親の側から崩れてしまった。子どもに携帯を持たせておけばとりあえず安心だという半放任主義的な親の姿勢が子どもの自立を歪曲して助長させてしまった。歪曲した形の自立を個性と取り違えてしまった。子どもの葛藤、軋轢を受けとめる社会の受け皿の幅も狭くなったのかも知れない。携帯で見知らぬ人と簡単に出会えて親密になれるような錯覚に陥り、心の隙間を埋めていく。人間関係なんてそんなに一朝一夕に構築できるわけがない。一緒に苦労したり、泣いたり笑ったりしながらだんだんと信頼関係を深めて理解しあえていくものだ。刹那的な快楽主義はやはり人間の心の隙をつきやすく犯罪の温床となる。

バランスの崩れた親子関係においては子どもが小さいうちは子育てがうまくいかないことに腹を立てる親が場当たり的な愛情のない体罰を子どもに与えてしまう。これはもう親が自立できていないのだから問題外。子どもを車中において遊戯に耽る親や子どもの横でたばこを吸う親たちは子どもを産み育てる資格がない。小さい頃から子どもを自立させる方向に歩ませなかった家庭では不登校や引きこもりという状況が生まれる。何年もかけてそういう状況を作ったのだから状況の変化は容易ではない。自立させようという親の思いが子どもに伝わらず子ども側からしてみると「なんで自分だけがプレッシャー(成績)をかけられ、いやなこと(勉強)を強制されるんだ」という疑問が解けないまま不満から憎悪に変わってしまう。家族で改めて「自立するということ」「なぜ勉強しなければならないか」ひいては「人生とは」などについて折に触れて話してみたい。

子どももいろいろなお稽古ごと習い事で忙しいだろうが、ピアノ、空手、サッカー、スイミングなどいろいろあるがまずそろばんを習わせて欲しい。その次に習字。きれいな字で丁寧に書くことは自分を大切にすることにつながる。自分を大切にできないものは他人を大切に扱えるわけがない。やはり「読み書きそろばん」が基礎力となる。

「世の中勝てばいいんやろう!」の自己本位主義と成果主義が席巻する中、甲子園の決勝戦を延長15回まで闘い抜き、再試合でも最後まで堂々と闘い抜いた高校球児たちの笑顔が日本中にさわやかな風を吹かせた。その大会に地方大会から参加しすばらしい大会を作り上げた高校生一人一人に拍手を送りたい。
「ヒーローは僕じゃない。みんな一人一人がすばらしい仲間なんだ。」マスコミが派手に騒ぐ中そんな声が聞こえてくるような気がする。若者に教えられることもたくさんある。



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次世代に向けて才能・勇気・努力を備えよ

才能は英語でタレント(talent)、またはギフト(gift)と言い語源的には天賦の才のことを指す。才能は磨くものではなく神から与えられた特別な能力を見いだすものらしい。残念ながら多くの人は短い人生の中で自分の才能を見つけられずに死んでいく。勉強とは自分の才能を発見するためのものである。自分の中にある天賦の才は、意地悪くてなかなかここにあるよとは教えてくれない。重くて厚い扉の向こうにあるかも知れないし、何気なくそっと誰も気づかないところに置かれているかも知れない。これが本物だと思っても偽物をつかまされていることだってある。運良く自分の天賦の才にめぐり逢えた人を天才と呼ぶのだ。彼らは普通の人が絶対にできないことをいとも簡単にこなしてしまう超能力を持っている。

天賦の才を生かした職業を英語でジョブ(job) やプロフェッション(profession)とは異なりコーリング(calling)と言う。まさに神のお召しに答えたと言えよう。そういう職業にたどり着ける人はまれで、たいていは現実の仕事になんらかの不平、不満を持っていたりするものだ。自分の好きでもない仕事を仕方なくやっている人が大勢を占めるのだ。
一時は国内の大手メーカーや中小工場などが安い労働力を求めて海外移転を推し進めてきたが、次第に国内回帰の動きが見られてきた。「ものづくり日本の復活」「景気回復の兆し」と歓迎される一方で、新たな日本の低賃金請負労働者の数が増大した。大手製造業の工場で「偽装請負」と呼ばれる違法な労働形態が広がっている。メーカーにとっては外部から受け入れた労働者を低賃金で、安全責任も曖昧なまま使えるうえ、いらなくなったら簡単にクビを切れる。ようするに派遣型社員は現在400万人いるといわれている。建築業でも食品業でも偽装、偽装と騒がれたと思ったら今度は製造業。次はなんだろうと勘ぐってしまう。

小泉政権が推し進めてきた構造改革とは格差社会を肯定しそれを民衆に納得させたものだった。日本人の多くは自分が中流階級以上だと思いこんでいる。しかしそこに大きな盲点があった。自分たちが中流階級でいられるためには子どもの時からのしっかりした教育がなされなければならない。そこから「ゆとり教育路線」で切り崩されてしまった。一見景気がよくなったように見えるがそれは格差社会が安定期に入ったと見ていい。貧しい側に回ってしまった人はこれから押し寄せる増税、消費税栗アップ、医療費の値上げ、お金がなくなってからの日銀の0金利政策の打ち切りに耐えなくてはならない。

「再チャレンジ制度」などときれい事を言っているがその程度のとってつけたような子供だましの政策は焼け石に水にすぎない。日本の格差社会に対して否定的な意見を持つならしっかり自分の意見を主張しないと間に合わなくなる。一番基礎である高度な教育を受ける機会をゆとり教育から取り戻さないと下流社会の輪廻から抜け出せなくなる。
集団行動が得意の日本人は一人で行動する勇気少し足らないかもしれない。確かに知人や友人と一緒に行動すれば楽しいときもあるし安心だ。しかし、周りに合わせすぎて自分の意見や主張を言いづらい。他人に合わせて食事を取ったり食べるものも気を使ったり、行く場所、見るものすべてなんらかの制約が多くかかる。それに新しい人との出会いや触れあいも一人の時に較べて減ってくるだろう。買い物でも図書館へ行って勉強するのもたまには一人で行動する勇気を持って出かけてみてはどうか。他人に迎合しすぎると自分を持つことを躊躇しやすくなる。

努力とは我慢することのできる忍耐力だ。「がんばって」という声をよくかけたりかけられたりするがそれはすなわち「どこまでも忍耐して努力する」ことにほかならない。「がんばって」は「がまんして」と思わなければならない。しかし、最近の「がんばる」には忍耐が欠けてきている。なにか運任せのような気の抜けたような軽いニュアンスさえする。決断の意志が弱いとなにかにつけできない理由を探し出すものだ。何かを成し遂げるにはそんなに簡単にいくはずがない。必ず越えなければならない壁が立ちふさがる。その壁を自分で越えられる力が努力なのだ。たいして困難な状況でないときにがんばる必要はないのだ。

人間一人一人がんばり時がある。その時に自分の才能、勇気そして努力が必要とされる。中高生は夏休みもだんだんと終わりに近づくにつれて前期期末試験が見えてくる。そろそろペースをあげてがんばり時にはいるほうがいいだろう。自分に与えられた才能を発見するためにもやるときはやらないと必ず後悔することになる。



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挫折とライバルから成功を導け-即効性の危険

現代の人間はスピード時代の中で即効性のあるものに惹かれる。すぐ効く薬だとかすぐやせるダイエット食品やダイエット器具にすぐ手を出してしまう。もっとゆっくりすべきところはゆっくりでいい。そんなに楽をしてやせられる訳がない。もしやせるとすればそれは身体をこわしてやせていることだ。オレオレ詐欺もゆっくり確かめてちょっと待ってから判断すれば騙されることもないだろう。
目先の欲に囚われてしまった現代人は目の前の利益を取ることに血眼をあげる。株で損する人もまだまだあがるだろうとかまた上がるだろうと自分勝手な期待をする。そして客観性を欠き冷静な判断ができない。火をつけて家を焼いてすべてをリセットする短絡的な行動に走る。結局は欲につぶされる。

島国の日本人の弱点として客観性を欠きやすいというのがあると思う。回転ドアの事故やエレベーターの事故、青信号で渡っているのに交通事故に遭ってしまった事故、踏切事故など機械が絶対に安心だと信じてしまっている過信もあるのではないだろうか。そしてその機械に操られている人間もミスをする。そういう間の悪さが重なって事故は起きる。機械や人間を過信しなければ防げる事故もかなりある。自然の中で遊ばせて育てる。自然には誰も文句は言えないからだ。段差があろうが石があろうが苔が生えていて滑りやすいだろうがこればかりはどうしようもない。自然と向き合うときは真剣勝負の中でその恵みを享受せねばならない。人工物や他人に非があると言って文句を言う人間が多くなりすぎた。危険を察知する能力や回避する能力がなければその道具に近づいてもさわってもいけない。

道具ばかりに責任を押しつけて安全性をその対象物に求めるのも一つの解決策ではあるが根本的な応用のきく対策にはならない。なぜなら手をはさまないドアに慣らされれば与えられた安全とともに直感的注意力が奪われる。違うドアで手をはさみやすくなるのだ。つまり両刃の剣になりかねない。便利な分のリスクは当然ある。まずは自分の身は自分で守ることが原則。それを教えるのが親であることも大原則。

自主性は環境が育てるのであって自分の中から生まれて来るものではない。勉強でもスポーツでも自ら進んで努力を重ね一人で伸びていくことは絶対にない。そういう場合必ずいいライバルがいるはずである。ライバルと競い合う中で挫折を味わうことも覚える。また努力することで優位に立てることも学ぶ。
いいライバルと挫折なくしては真の成功はない。

失敗から学ぶことができないと同じミスを繰り返すことになる。臥薪嘗胆、試行錯誤、切磋琢磨。どうしたらいいか反省し、工夫し再び挑戦する。次第にミスがなくなって期待するような成果が得られる。勝ちパターンを獲得する。「勝ちパターン」を獲得するには個人差があるがそれなりに時間がかかる。エネルギーもいる。失敗だけを見て落胆し、次への意欲を失わせてしまう親が増えた。最初は負けるのが当たり前。勝ちパターンを覚える前段階で学習者の挑戦をつぶしてはならない。まわりの者も忍耐がいる。最初は目に見えないような小さな勝ちパターンが生まれる。それからだんだんと勝てるような予感。それが次第に期待となり、確信となる。黒星ががいっぺんに白星ということは不可能だ。まずは一勝。その一勝が手がかり足がかりとなり次の勝利を呼び込む。

収穫するために種をまく。そして手間暇かけて愛情を込めて育てる。秋には収穫を祝い神に感謝する。その繰り返しが人間の自然な営みであったはずだ。(バウタイムズ2005年10月号-祭)現代人の多くは目先の強欲に溺れ、我慢して育てることを忘れ自然への感謝も忘れ、ゆえに隣人への愛もなくしてしまったかのようだ。
まくべき種も「腹がへったから食っちまおうぜ」と言って将来の希望さえも食い尽くしてしまう。より多くの人々に貢献できる収穫をめざしてどこにどの種をまくべきか、そしてどう育てていくべきか、真剣に考えなければならない時を迎えていると思う。



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BAU TIMES

昨年(2005)末の時点で約813兆円、1万円札で積み上げると高さ8130メートル。富士山の高さの2.5倍になる。また、赤道上に縦に並べるとすると、地球を400周以上することになる。
経済規模と借金の額の比率で見ると、先進国では日本は米国と並んで最悪の水準となる。国民一人あたりに換算すると約636万になる。それで国の税収は約46兆円。実際に国が負担している額は約90兆円。46-90=-44。44兆円の借金が毎年増えていく。後4年もすれば日本の借金は1000兆円になってしまう。
年金制度が事実上崩壊しかかっている。消費税率も10%は軽く行くだろう。都合のいいときだけ諸外国を持ち出してくる。諸外国の消費税を見てみるとフランス19・6%ドイツ16%イタリア20%イギリス19・5%スウェーデン25%中国17%韓国10%となっている。食料品に対しては0~5%に抑えている国もある。アメリカ合衆国は小売売上税という名目でニューヨーク州では8・25%となっている。ちなみにチップとしては25%くらいが普通とされている。しかし、考えなければならないことは諸外国の財政状況だ。日本のように無計画に税の無駄遣いを国民に押しつけているわけではない。
どうしてこんなに借金がふえてしまったのか? というよりどうしてこんなに借金をふやしてしまったのだろうか? 90年代にバブル経済が崩壊して税収が減り、景気回復を狙って公共投資を増やしてそれがまったく上手く運営されていない。高齢化で社会保障費が増え続けている。少子化(2005年出生率1・25)で将来の納税者である子どもが少ない。官僚や政治家は頭がいいはずではないのか?バブル期には調子に乗って各市町村に1億円ずつばらまいた。今や、平成の大合併で地方都市が大きな都市に吸収合併されている。地方都市版のM&Aだ。
東京や大阪などの大都市は国の心臓部だからなんとか動いている。そのまわりの衛星都市もなんとか生き残っている。心臓部から遠く離れれば離れるほど金の流れが滞り経済的にいきづまり壊死に近い状態になっている。地方都市に行ってみると駅の近くの商店街や従来の繁華街は大多数の店がシャッターを下ろしている。郊外に大店舗が作られごっそり顧客を奪ってしまった。車で移動できないお年寄りだけが近所の商店に足を運んでくれるが、わずかばかりの購買力では商店がもたない。格差社会はいたるところで進んでいるのだ。

小学校で英語を教えることになり、いろいろと物議をかもしている。教え方によっては有意義になるだろうが小手先で英語を教えてみようくらいの考えではかえって百害あって一利なしの結果になる。官僚指導の見切り発車になる。ゆとり教育の轍を踏むことになる。適切な発音指導や文化、国際理解がなされなければ英語の能力向上はもちろん徒労に帰して、変に身に付いてしまった悪癖を取り除くのに手間がかかる。そのまま日本語の発音の癖のついたまま英語教育が進められてしまえばピジンイングリッシュになってしまうだろう。小学生の英語はクラス担任が中心になって教えることになっている。
何を子どもたちに教えていくべきなのか。子どもたちは選択することができないのだから大人が真剣に子どもたちのまわりの環境(情報)を整備していく責任があると思う。子どもは与えられた環境に染まっていく。適応能力は大人の数倍備わっているのだからその学習スピードは驚くほど速い。パソコンも驚くほど早くマスターし、ゲームも携帯電話もいとも簡単に使いこなしてしまう。ゆとり教育の中で育てば当然ハングリー精神は育たず不登校や引きこもりが増えてくる。打たれ弱くなる。
自然に多く触れその摂理を学び、地理や歴史、政治に関心を持ち見聞を広げる。数字に強くなり経済的観念を身につける。外国語を学ぶことによって諸外国のことに関心を持ち自ずから日本のことも見えてくる。バランスよく学ぶことによって自分の可能性を広げ社会に多く貢献できるようになる。
今、本当に大人が真剣に子どもの環境整備を考え整えないと日本の国際競争力は落ちて813兆円の借金は増え続け永遠に先送りされることになるだろう。
教育基本法改正で愛国心を謳うのもいいが子供達に夢と現実を理解させることも忘れてはならない。



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トリコロールとジパング

フランスの若者雇用制度(CPE)をめぐる動きは労厳しい国際競争にさらされ雇用数を自在に調整したいという企業と好条件で安定した地位を求める若い労働者の厳しい現状を浮き彫りにした。CPEは4月13日に正式に廃止され幻の政策となった。さすがフランス国民の政治の関心度の高さと彼らのパワーには圧倒された。日本はフランスのようなCPE制度はないが労働者の3割を占めるパート、契約社員、派遣社員の有効期限は契約期間満了という形で事実上、理由なく企業の都合で解雇されているのだ。欧米に較べて若年層の失業率は低いが不安定な職に就かざるを得ない若者が増えているのが日本の特徴だ。
その結果、非正社員の男性の給与は正社員の64%にすぎず若者の所得格差も99年以降急速に拡大している。
*15~24才までの若年層の失業率:ポーランド35.6% イタリア24.4% フランス21.7% スペイン 18.1% ドイツ 15.6% イギリス 13.4% 米国10.7% 日本8.7% 
*CPE-初期雇用契約。従業員20人以上の企業が26歳未満を雇う際、採用から2年間は理由を示さず解雇できる制度。1月にドビルパン仏首相が発表したが、撤回された。

与謝野経済財政相は景気回復の状況について戦後最長だった「いざなぎ景気」を軽く抜き実質経済成長率にについても2%を超える可能性が出てきた。一般国民の消費も伸びてきていると述べている。何かいい予感を感じさせる発言だが本当なのかと猜疑心も湧いてくる。「企業経営者のマインドが非常に落ち着いている。企業の体質が変わった」とも述べているがそれは企業の都合でリストラを断行し、いつでも首を切れる非正社員を増員した結果格差社会が安定したと同義ではないのか。2005年までの10年間で正社員は446万人減り、非正社員は590万人増えた。24才までの非正社員は2人に1人に迫っている。「フリーター」が辞書に載ってあまりありがたくない市民権を得た。
日本では労働条件がフランスよりも悪条件なのになぜみなが立ち上がらなかったのだろう。それはすべてが個人の「自己責任」であるとされたことと国民全体が政治に無関心でありすぎたのではないか。また他人にかまっていられる状況ではなく自分の身にリストラや非正社員の不遇が降りかかってこないようにするのに手一杯だったのかも知れない。企業体質は成果主義に変わってしまった。余計なことを言って上司の不信感を買ったりご機嫌を損ねたりすることの方がよっぽど怖いのかも知れない。経済弱者は企業にも政府にも見放されてしまった。やはり最後の一句(森鴎外)。「お上の言うことにはさからえませんから」なのか。

「自己責任」という強権的な言葉によってすべてを押しつけられるのなら国家としての日本の意味が問われてくる。北朝鮮に拉致された人たちも自己破産した人たちもフリーターになってしまうのも、耐震偽装マンションを購入した人も、運が悪く、自己責任で対処してくださいと言っているようだ。教育基本法が改正され愛国精神が盛り込まれるが、法律で愛国精神を定義するのではなく日々日常の中で日本に生まれてよかったという感覚や誇りを持ちたいものだ。

日本は黄金の国ジパングと呼ばれた。シルクロードを通じて世界の文化が集積し、それらが融合してさらに昇華した。確かに豊かな自然に恵まれてはいるが、その恩恵に甘んずることなく自然に対して決して忘れることのない畏敬の念が日本人の精神風土に脈々と流れているのだろう。自然に対しては人間は無力だということを先人たちは知っていたのだ。

現代に生きるわれわれは日常の利便性に慢性的に慣れてしまってほんの少しの不便さにも無力になってしまう。つまり、文明の恩恵を受けた分だけの危険に晒される。例えば、携帯電話も簡単に連絡が取れて確かに便利な面もある。しかし、同時にさまざまな犯罪の温床となる。コンピューターもたくさんの情報を瞬時に受け取ることもできるし処理することもできる。しかし、それと同時に自らの情報も流出してしまうこともある。文明の利便性ばかりに目を奪われて安易にその恩恵にあやかろうとする。そういった短絡的な思考様式が思わぬ落とし穴を見落とすことになる。文明に毒されて骨抜きにされた愚かな日本人から脱却してすべからく自身の生きる道を真剣に見つけ真実の幸福を追求するべきではないだろうか。

「億劫がって何もしないでじっとしておって何か役に立つ知識が入ってくると思うのは間違いなんです。自分の足を運んで自分の目で確かめてそうやって自分で得た知識はものすごい応用のきく生きた知識になるんです。」
南極探検隊副隊長を務めた西堀榮三郎さんは86才で亡くなる直前に残してくれた言葉だ。
自分たちで闘って勝ち取った自由と他人から与えられた自由の差は大きいのかもしれない。


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料理-食材と包丁と砥石と器

料理するには包丁が必需品だろう。料理するのに専心して包丁を使い続けると次第に包丁の切れ味が悪くなり、料理自体の冴えも衰えてくるだろう。おいしい料理を作るには食材はもちろんだが、その食材に直接当たる包丁に細心の注意を払うべきだろう。それから器。料理を引き立てるのは心のこもった手作りの器だ。

「器を作るときはどんな料理を盛りつけるのか、どういう食べ方をするのか、どこを持ってもらうのかそういったことを考えながら作るんです。」高崎市石原町の陶芸家の小幡実さんはつぶやくようにこう教えてくれた。厚さは?重さは?色は?形状は?土と対話しながら心をこめて無から有を作り出す。そらから1200度の火が静かにしかも確実に土に命を吹き込み暖かな温もりを与えてくれる。

包丁を研ぐには砥石がいる。表舞台には決して出ない砥石だが砥石がなくては研ぎすまされた包丁はあり得ない。食材とそれを料理する包丁、砥石、盛りつける器。そのどの一点にも妥協があってはならなず完璧な調和が必要とされる。客をもてなすために懐に温石を入れて料理を温めておくという日本人の忘れ去られてしまったつつましくへりくだる心がそこにあった。

ところが現在の日本では道徳心が急速に崩壊しつつある。モラルハザードが吹き荒れている。「分からなければ何をしてもいい」という理屈がまかり通ってしまうようになった。大人でも車窓から路上にゴミや吸い殻をすてるものや、人に迷惑がかかる場所で自分の子どもが騒いでいても注意できない親。あり得ないだろうという偽装事件の数々はこういったモラルの低下、欠如からきている。金儲けができればそれが違法だろうがモラルに反していようがどうでもいいことだと思っている。そういう大人たちの中で育ってしまった子どもたちは万引きや窃盗、盗難、いじめ、動物虐待、殺人の犯罪を犯してもたいして罪悪感はないのかも知れない。

客人(相手)に対しておもてなしの心があればそれは人に伝搬するものだ。他人の車が入るのを譲ってあげる心は譲ってもらった人に伝わり、その人が他者に優しくなって和の心が輪になっていく。まずは「隗より始めよ」だ。
*隗より始めよ-中国の戦国時代の昭王と郭隗の故事、賢臣を求めるなら、自分のようにさほどでもない者を用いよ、そうすれば賢者が次々と集まってくる。ことを始めるにはまず言い出した当人から始めよ。転じて手近なことから始めよの意。

閑話休題、大人も今の子どもたちも生活の中での砥石は何かあるのだろうか?自分の感性を鋭くし視野を広げてくれる砥石はあるだろうか?ただストレスを発散するための安易な方向に流されてはいないだろうか?包丁の切れが悪くなれば料理の完成度も下がる。勉強でも仕事でも感性が鈍れば無駄や無理が多くなりその分ストレスも増えてしまう。今の問題にだけ注意を奪われていれば豊かな想像力(イマジネーション)はいっこうに働かず場当たり的なその場しのぎの発想しか生まれてこないだろう。未来に目を向けた想像力(イマジネーション)から準備を始めれば余裕もあるし感性も研ぎすまされてくる。そして今何をするべきかが見えてきて現在抱えている問題や悩み、苦しさやストレスも小さく思えるかもしれない。

いい料理を作るのにはいい食材を見つけなければならないように自分の感性を磨くには身の回りの環境整備をしなければならない。自分に新鮮な空気を吹き込んでくれ、未体験の風景を見せてくれるそういう環境の中に身を置くことだ。環境が人を育てるのだから環境を厳選し、勇気を持って飛び込んでいかねばならない。視野を広げるということは平面的な面積を広げることだけにとどまらない。空間を広げ立体的に、時間を超え人生の中で物事が考えられるということだと思う。
麻の中の蓬で自分を見つめ鍛えていきたいものだ。
* 麻の中の蓬-まっすぐに成長する麻の中で育つ蓬はまわりの麻に感化されて自身も素直にまっすぐ育つというたとえ

肖像画

今の自分はどういう自分?
過去に思い描いていた自分がそこに座っている?
未来の準備のために生き生きとしている顔が映っている?
現在の収穫に満足している?

何も考えずに今を迎えてしまっている?
過去の反省もせずに
未来の展望も持たず
現在の不満に埋もれている?

現在、過去、未来を抱え込んで
自分はどんな顔をしている?
やさしい目をしている?
穏やかな笑みを浮かべている?


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規制緩和 ワイルドな時代へ

勝ち組、負け組。六本木ヒルズ族、下流社会などの言葉が象徴するように勝つか負けるか、食うか食われるかの時代が本格的にやってきてしまった。今までの日本は国民がみな中流意識を持てるような社会を目指してきた。それが2000年のアメリカ型ビッグバンを機に楕円形の日本の所得構造がまず縦長になり、次第に上部は尖形になり下部が膨らんで銀杏の葉の形になった。そして勝ち組負け組といわれるひょうたん型二重構造の最終構造に移行しつつある。
「世の中は金で買えないものがある」有識者ぶったしたり顔のマスコミやテレビのワイドショーのコメンテーターたちは口をそろて言う。確かに「金で買えないものもある」が、金で買えるものが圧倒的に多い中、現在の社会構造の急激な変化を止めるには説得力がなさすぎる。そんなきれい事を並べ立てても今の若者には一笑に付されててしまうのが落ちだ。

それにしてもマスコミは恐ろしい。ちょっとでも弱みを見せたり、躓くとよってたかって血祭りに上げる。波に乗っているときは思い切り持ち上げ波に乗り損ねると一気に落とす。その手のひらを返したような落差を見る限り、マスコミには信念のかけらもなく、気にしているのは視聴率であったり購読数なのだ。視聴率が取れるとあれば、やらせでも危険なことも何でもする。おもしろく興味深く演出することが大事なのである。それはすべて金につながるからだ。しかし、現実はテレビがどんどん軽薄化して見ていてもおもしろいものは本当に少ない。視聴率を稼ぐためにマスメディアが大衆に迎合したのか、マスメディアが大衆を軽薄化させたのか、どっちもどっちなのか、分からないが世の中全体が軽薄化したことは間違いない。

グローバリゼーションとかビッグバンとか規制緩和とか「民間にできることは民間に」を旗印に掲げた小泉改革と称されてきたものは実は戦国時代さながらのワイルドな仁義なき戦いの幕開けであったのだ。それは教育界においては「ゆとり教育」だった。
その「ゆとり」の裏にある思惑を見抜けず、油断してしまった親の子供は生きる力を持たずして野性の国で生きていかざるを得ない。子を育てるとはどういうことかを自然界から学ばなければならない。愛情を持って厳しく育て、敵から身を守り自立させることを教えるのが親の仕事だということを大人たちは再認識するべきだ。不幸にも子育てを間違ってしまった親は不登校やフリーター、ニート族の仲間入りをしていく我が子を見ることになる。

野性の世界にはそこら中に敵がいる。内部告発も正義感からだと信じたいが体のいい会社や上司への背信行為とも取れなくはない。告発者は事態が深刻化する前に提言できたかもしれないし何らかの善後策が取れたかもしれない。
しかし、今の会社では成績評価性が多く導入されて、変なことを言って上司の反感を買ったり偏見の目で見られるよりも「沈黙は金なり」を通した方が安全だ。そう考えるとまともな意見もアイデアも数多く抹殺されることになり、社内に粉飾決算が横行し、会社の事実上の発展は望めない。個性を育てるはずのゆとり教育がもたらした結果は、それとは全く逆行する形の没個性の社会の温床となった。

生誕250年を迎えた天才作曲家ウォルフガング=アマデウス=モーツァルトが現代を見たらどんな曲を作ってくれるのだろうか。


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システム構造の歪  不安、不信、不快 笑顔が消えた現代人

人は大きいもの、構造化されたもの、組織化されたものにある種の畏敬の念を抱く。荘厳で巨大なものを目前にして自分の存在の小ささを思い知らされ圧倒される。自分の手の届かない別次元の力を感じる。その魔力を借りて歴代の大君たちは庶民を支配してきた。
大きな会社が建てた大きな建物を目にして、これなら大丈夫と思ってマンションを購入してしまう。造られたイメージは偽造だった。人間の盲点が巧みに突かれている。盲点ではあるが視点を変えれば必ず見えてくる。自分の目を信じることである。自分の目を信じるためには自分の生き方に自信が無ければならない。他人の意見を聞いて正しい情報を得ることはとても大切だが、人の話を鵜呑みにして盲従してしまうのは危険で愚の骨頂である。
自分の足を運び、自分の目で見て、自分の手で触れて、自分の頭で考え、自分の心で判断する。それが原点ではないだろうか。自分の大切なお金を使って家を購入するなら自ら現場に行って基礎工事を見て、柱の一本一本に触れて、次第に出来上がってくる床を歩いて、イメージを膨らませたり、修正したりしながら職人さんと一緒に家を建てていく。そんな姿勢が大切だし、愛情も生まれるのではないだろうか。家のところを「こども」や「ともだち」「おや」、「勉強」、「顧客」などに置き換えて考えたいものだ。特に学生時代は修行の時代、基礎工事に当たる大切な時期だ。その基礎工事を自ら手を抜いて杜撰な普請にしていないかよく反省してみるといい。人生設計は学生時代という基礎工事の上に成り立つというイメージを持て。
システムの中では自分の存在が薄れ、個人の責任の所在が不明になりやすい。一人ひとりが自分の仕事を正確にきちんとこなしていればシステムは正常に機能し効率的だろう。しかし、人間はミスをするものだし精神的にもろい部分もある。完全な歯車になれないのだ。人間の本来持つ想像力や独創性を制限されるようであれば当然フラストレーションがたまり能率が悪くなるだけでなく、さらに悪い方向に行きかねない。

昨年のニュースから
偽造紙幣、偽造ハイウェーカードの犯罪
―ITが生み出した副産物
自民圧勝、郵政民営化法案可決
―吉と出るか凶と出るか。
みずほ証券がジェイコム株の入力ミスで数分間で数百億円の損失を出した。
―よく倒産しないものだ。
ホテル、マンションの耐震強度偽造事件責任の所在が不明のままで公的資金が投入される。
―まだまだ絶対続出する。
大手学習塾でアルバイト講師が小学6年生を殺害した。
―教室にモニターやのぞき窓を置くよりも信頼関係と笑顔を置くべきでしょう。
巨大総合病院での相次ぐ医療ミス。
―人の命を軽く見ないでほしい。医は錬金術じゃない。
予算を使い切ればいいという安易なお役所的発想から生まれる負債の悪循環。
―あなたも税金払ってるんでしょ?因果応報って知ってる?
何十億円という多額の横領事件。
―見つからなければなんでもありですか。
凶悪犯罪の蔓延。
―金融機関やコンビニに行くのが怖いね。人が泥棒に見えてきてしまいます。
若い主婦や夫による児童虐待。
―コドモには児童を育てられないよ。
ゆとり教育って何だったの?
―教員のゆとりだった。

システム構造の歪の中で人間関係が薄れた。笑顔の人間関係を再構築していくためには個人の力を生かし、それを全体の力に集結していく発想が求められる。失敗が即減点につながる今の成果主義では個人の大胆で画期的な意見が影を潜め、無難で先細りの路線を歩んでいくだろう。
とにかく昨年は偽造で始まり偽装で終わった年だった
恐竜は地球の王者として君臨した。しかし、ジュラ紀という短期間に限ってである。生き残ったのは小さくて弱い動物だった。


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杜撰 ~物事の仕方がぞんざいで、手落ちが多いこと(広辞苑)~

強度偽装マンションなどの建築確認で、民間の指定確認検査機関がかなりの数に上る偽造を見落としていた。施工業者、設計士が利益優先主義で招いた住民の不安感・不信感は言うまでもないだろうが既にマンションや個人住宅を購入した人、さらにこれから購入しようと考えている人たちにも建築業界に対して多大な不信感を抱くことになる。調査を進めていけばまだまだ同じような手抜きが発覚し不良住宅が表面化するだろう。日本はいつから拝金主義が大手を振ってまかり通る国になってしまったのだろう。
大手銀行の不良債権、雪印乳業、鳥インフルエンザの鶏肉汚染隠蔽、BSEの国の援助金横領、日本道路公団や社会保険庁の税金無駄遣い、西部グループの汚職、日本歯科医師会の政治献金疑惑、酒造組合の会費の政治家への裏金工作、警察の二重帳簿、厚生省の薬害問題、日本航空の不良整備、文部科学省のゆとり教育の失敗における少年犯罪の多発化やニートの数の増大、外務省の裏金工作や二重高額給与問題。数え上げればきりが無い。どれも天下り官僚と政治家と大手企業の癒着の悪循環だ。
そうなると政治家や官僚のやることに不信感が高まってくる。新型インフルエンザに効くとされているタミフルも本当に効くのかどうか心配になってくる。郵便局が民営化されてもまたどこかで税金が食い物にされるのではないかと心配になってくる。
現在日本の債権は800兆円を超えているといわれている。今度の偽装マンション事件でもおそらく公的資金(税金)が使われるだろう。国からの補助金も使わないと損だとばかり無益なことに使い果たし、その結果、運営費用に年間何億円もの赤字を出す。他人の金だから少しぐらいいいだろうがだんだんエスカレートして巨額の負債となる。
ある町でみなの酒を家から少しずつ持ってきて樽に入れるという話があった。みなが自分の分くらいは薄まっても大丈夫だと思い水を入れた。そしていざ樽を開けて酒を見てみるとすべてが水だった。昔読んだ話を思い出した。
日本人は世界で最も手先が器用だと言われてものづくりに関しては右に出るものがいないほどだと思う。戦後、焼け野原からわずか30年で世界のトップにまで躍り出ることができたのも日本人の頭脳の優秀さに加えて、我慢強さ、手先の器用さがあってのことだ。それが急速に失われつつある。

京都大学の霊長類学者、正高信男教授が日本人がサル化していると警鐘をならす本「携帯を持ったサル」を著している。我慢が効かなくなりすぐキレル大人や子供たち。電子レンジに頼る主婦。鉛筆を使わず、削れない子供たち。そういう子供たちが包丁を器用に使えるようになるとは思えない。より早くてより安いほうが最優先されるインスタント思考に陥るとどうしても手間のかかった丁寧な仕事が疎んじられやすくなる。インスタントも使い方次第でとても便利になる。しかし、インスタント思考一辺倒になると危険だし進歩が無い。インスタントはあくまで即興、即席のことだから間に合わせでしかないのだ。
見栄えだけを求めた、下ごしらえのいい加減な料理。杜撰な基礎工事の建築物。基本ができていないのに応用問題に挑戦する徒労。早急な利を得ようとすると、本末転倒な事態になりかねない。
大切なのは求められるレベルだ。どのくらいおいしい料理を作るのかによって食材費用も時間も手間もかかってくる。何階建ての建物を建てるかによって基礎工事内容も変わってくる。勉強においても何点取りたいか、どのレベルの高校、大学に行きたいかによって基本の学習内容も変わってくる。
目標設定のないプロジェクトなんて有り得ない。適当な目標設定の下では適当な結果しかえられない。まず目標設定をして欲しい。それから、その目標に向かって最大限の努力をするべきだ。目標のある努力は本人にとってさほど苦にならないものだ。いや、かえって苦よりも希望に向かっていく楽しみであるかもしれない。同じ内容を勉強するのなら楽しくやりたいものだ。
現在、日本は多少景気が回復したとはいえ、まだまだ学生にとって就職難だ。大人の社会も雇用削減で大多数の企業が経営を立て直したばかりだ。所得税も消費税も上がる。日本の赤字を考えれば仕方ないかもしれないが、税金の無駄遣いは慎んでもらいたい。
学生の学力低下が叫ばれ、生きる力とか働く意欲の欠如が問題とされるが、それどころではなく、もう取り返しのつかない事態に陥っているような気がする。


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インスタント時代の祭り

山々の木々がうっすらと色づく頃になり、秋の収穫も終わりを迎える頃になると各地方で収穫を祝う祭がとりおこなわれる。祭、それは地縁的共同体の中で、風土と深く関わり合いながら長く培われてきた歴史や伝統、地域信仰や風俗が一つの具象的形体で結節したものだ。伝統文化を確実に世代から世代へと受け継ぎ地縁的共同体の帰属性を再認識し、再構築していくための儀式である。
祭は正月に農耕の豊凶を占うことから始まり、桜の開花を稲作の予兆とする鎮花祭(春祭り)を経て夏の田植え祭、秋の盛大な収穫祭、そして物忌をする冬祭をもって年中行事が締めくくられる。そこにはある種の厳粛性や芸術性、その地域のダイナミズムが横溢していた。
*横溢…溢れるほど盛んなこと

神無月の頃、ほとんどすべての中学校、高校で文化祭や学園祭が行われる。「祭」がつくのだからアカデミックなもの、芸術性のあるものをつい期待してしまうが実情はかなり違う。いつの間にか若者にとっての「祭」は「盛り上がれば良しとする遊び」に意味を変換されてしまったようだ。屋台で焼きそばを売ったり、または間に合わせで何かの展示をするといった程度のモノが多く、これといって「祭」に相当するモノが見あたらない。自分たちだけで盛り上がらないと分かったものは外から金をかけてお笑い芸人や歌手を呼んで盛り上げてもらう。内輪で盛り上がって騒いでそれを成功と勘違いし、それから大人の真似をして「打ち上げ」をする。

学園祭や文化祭を子どもたちだけの自主性に任せすぎた大人の無責任さも問われるべきだ。子どもたちの新しいことに関しての発想は確かにすばらしいものもあるが、はたして伝統文化や伝統芸能に関してはどうだろう。知識も経験もほとんど無である。せっかくやるのなら地域の大人たちや父兄、教師が生徒たちと協力し合って何か一つ本当の成功とよべるものを創ってもらいたいものだ。年長の人からいろいろなことを教えて頂き、感謝して成長していく姿勢が文化を育てていくことでもあり若者を育てていくことでもあるはずだ。そこには人間としての礼節も年長者に対しての敬意も自ずから生まれるだろう。そして自分が伝えてもらったことは確実に次の世代に継承していかねばならない重責も感じる。

大人たちも子どもにどう接したらいいのか迷いがある。今の世の中はインスタント時代だ。なんでもやろうと思えば簡単に手早くできる。つまり、手間をかけずに手を抜くことがいくらでもできる。料理もコンビニや電子レンジの恩恵に預かればさほど手間はかからない。子育てもテレビやゲームやお稽古ごとで代用してしまう。『子は親の鑑』と言うが子どもには親の似て欲しくないところがよくでてしまう。宿題でも手っ取り早く済ましてしまおうとする悪習がつく。勉強でも分かったような気がしてつい端折ってしまう。それを飲み込みが早いとか理解力があると見るのはたいてい親にもそういう傾向があるからだ。

実はそこに大きな落とし穴がある。学習とは早合点しないことが第一だ。特にテストで優秀な点が取りたければ、普通こんなところは飛ばしていくだろうというところをこそスピードを落として確実に内容を把握していかなければならない。基本と応用、それに難しいところはテストに出るものだ。問題は残りの数パーセント。それは分かったつもりになっているところから出題される。盲点をつかれる。つまり、ポイントはものぐさをせずにきちんと一から十まで隅々まで目を通して理解しておくことだ。頭がいいからいい点が取れるのではない。手を抜かないからいい点が取れるのだ。頭が悪いからいい点が取れないのではない。ものぐさをして適当に手早く済ませたから、いい点に結びつかないだけだ。

伝統文化も学問も過去の先人たちが苦労して築き上げてきた財産だ。それを分かったつもりになって切り花のように扱っては申し訳ない。その目に見えない地中の根の部分や幹に刻まれた年輪の厚みを感じながら文化も学問も大切に扱っていきたいものだ。


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想像から創造へ

人間は生まれてから日々成長している。身体的にも大きくなるがそれとともに精神的成長もみられる。身体的に大きくなるとより行動的になり積極的にもなる。それと呼応するように、精神的成長は、より広くなった行動範囲に安全を、より積極的になった姿勢に知性を与える。

自分の行動範囲を年齢とともに重ね合わせてみるとおもしろい。幼少時代の行動範囲は家の周りを少しだけ歩く程度だろう。それが少年時代になると自転車にまたがり隣町くらいまで行動範囲が広がる。中学生ともなるとバスや電車でさらに遠くまで足を伸ばす。高校生は足を伸ばした先で滞在できるかも知れない。それ以上になるとバイクや車が手に入り自由にどこへでも行けるようになる。日本は島国だから外国となると飛行機を選ぶようになり、行動範囲は飛躍的な広がりを見せる。ダイナミズムが生まれる。
* ダイナミズム(dynamism)自然界の根源を可能力(デュミナス)とし、これを物質、運動、存在など一切の原理であると主張する立場。

学ぶということは行動範囲を広げる上で必要条件なのだ。知性がないのに行動範囲を広げるというのは、どこに危険があるのか知らずに危険地帯を歩くようなものだ。したがって学ぶことをあきらめてしまったりやめてしまったとすれば自ずから行動範囲も狭くなり人間的成長も止まる。普段の生活の場所で生きていくことが余儀なくされ、それで満足するしかない。

暴走族がなわばりの中だけで横暴な運転をするのと同じだ。ニートが5年後には一〇〇万人を超えると言われている。学ぶことをやめて自分の行動範囲を狭めてしまった結果、彼らのなわばりである家から出たがらないのも自己防衛本能から考えれば当然なのだ。自分の巣から飛び立つ勇気のない哀れな雛のようだ。しかし子どもに巣立ちをさせられない親の責任も重い。

人間は個人であり孤独であり一人である。どの人間も、「座って半畳、寝て一畳」だ。人間を分数にして考えてみよう。分数には分母と分子がある。分母が人間の行動範囲を表す。どこまで行っても人間は一人である限り1だから分子も当然分母と同じ数になる。分子は分母と対応して同数となる。分子は行動範囲から得られる情報量や経験値を示す。同じ1でも人間的成長の広がりを持つダイナミックな1と成長が止まり限りなくゼロに近づいていく1とでは大きな差違がある。人間のスケールが違ってくる。

人間を個体として見ると確かに小さい存在に過ぎない。しかし、頭脳の側面から見ると無限に近い広がりがある。建築物ではピラミッドや万里の長城、バチカンのサン=ピエトロ寺院大聖堂、法隆寺。音楽ではモーツアルトやバッハ、ベートーベンなどの天才がすばらしい遺産を現代に残した。さらに莫大な量の情報を管理したり処理できる能力を持つコンピューターも人間の頭脳から創られた。一九〇三年にライト兄弟が初飛行に成功してわずか70年で人類は月までたどり着いた。つまり、人間には想像から創造へと移行させる力が備わっている。

9月11日の衆議院議員総選挙は小泉自民党の大勝利に終わった。郵政民営化が国民から支持された形になった。しかし、これからまだ何年もかけて郵政を民営化していくのだからまだまだ先の長い話だ。現代はある意味で超高速情報処理時代なのだ。もっと大胆で画期的な構想はできないものか? 民営化でも国営化でもどうでもいいことだ。日本のように国土面積が比較的小さく、しかもIT産業が発達しているのだから公共事業としてNTTや郵政省、国土交通省、関連各省に協力を呼びかけて日本全土を光通信で結ぶという発想はないのだろうか? ソフトバンクやライブドアより先にネット産業を国営で行えば赤字国債も飛躍的に減るし国のインフラ化としも無限のポテンシャル(潜在性能力)を持つことになる。国民がみな分かる程度の改革ではなく、国民をリードしていく改革であって欲しい。国会議員も官僚も頭脳明晰なシンクタンクであって欲しい。


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国語ができるには~人の話を聞こう~

国語に関してよく本を読めば国語ができるようになるとか、本を読まないから国語ができないとかいろいろな諸説がある。新聞の社説や天声人語や編集手帳などのコラムを切り取らせて感想や要約させる手法も多くとられている。どれも何らかの効果があるとは思うがどうも的を射ていないような気がする。
国語とはそもそも他人の書いた文章を読んで彼・彼女の言いたいことを理解したり共感したりするものである。理解するには相手の主張を認めたり、譲歩したり、反論したりすることが必要となる。そのためには自分の視点が欲しい。自分の考えや意見と照らし合わせてみて、ずれているところ、共有するところを確認しなければならないからだ。その自分の視点とはどうやって築いていくのだろうか。もちろん本から学んで築いていくことも多々あるだろう。それゆえ本を読めとか、新聞を読んだ方がいいとか言われるのだ。
しかし、本を読む前に人との対話があるはずだ。現代の生活において対話が非常に少なくなってはいないだろうか。テレビやゲームは向こうから一方的にメッセージが流れてくる。携帯電話やメールの普及によって言葉が急速に簡略化されている。親子の対話、友人同士の対話なども簡略化されてはいないだろうか。読書も確かに影響力はあるがどちらかというと受動的だし、テレビなどはかえって影響力が強すぎる。いい番組もあるだろうが非常に少ない。いい番組は番組制作に費用がかかるからだ。簡単に視聴率を稼げるので、どぎつくてモラルの欠けているものが大手を振ってまかり通っている。そういう生活の中で育っている子供が国語ができないのは至極当たり前のことで、自分の主張や意見を持って努力できるなんて非常に希有で奇跡に近いのではないだろうか。
他人の話をきちんと聞く習慣が身に付いていないから他人が話しているときに平気で手悪さしたり、おしゃべりをするのだ。自分の意見を言うために他人の話を聞かねばならない。他人の話を聞かせる習慣をつける第一歩は家庭です。家庭が子供にとっての第一の学校なのだ。対話の中で親は自分の歴史観や自然観、さらには人生観までも語っていいと思う。学校にすべて任せるのではなくまずは家庭教育を行うべきではないでしょうか。集中力をつけるのは学校という集団の中ではなく家庭内や個人の経験の方が重要な役割をするものだ。

自分をコントロールすることによってリラックスと集中力を使い分けていくこともとても大切です。何かを覚えたり理解したりするためにはかなりの集中力を要する。普段からリラックスと集中力の振り幅を広げておいて欲しい。その振り幅が小さいから中途半端なリラックスと頼りない集中力しか持ち得ないことになる。よく学び、よく遊びの精神は普遍的な金言なのかもしれない。具体的な集中力のつけ方は短時間で記憶する習慣をつけることです。ちょっと挑戦してみて下さい。漢字の読み方です!できたら意味もいっしょに覚えよう。(制限時間2分)

1隠蔽(物事を隠すこと)
2烏有に帰す(すべてなくなること)
3嗚咽(むせび泣くこと)
4傀儡(あやつり人形)
5驥尾に付す(優れた人の後ろに付く)
6逆鱗に触れる(天子の怒り)
7暫時(しばらくの間)
8漆黒(黒くて光沢があること)
9凋落(落ちぶれること)
10磊落(快活で心が広い)

解答
1いんぺい2うゆうにきす3おえつ4かいらい5きびにふす6げきりんにふれる7ざんじ8しっこく9ちょうらく10らいらく

国語は教科としては漢字の読み書き、語句の意味、ことわざ、故事成語などの知識に関する問題から論説文の読解、古典、俳句、短歌,詩の観賞があります。特に国語ができない生徒は論説文の読解を苦手としています。論説文はほとんどの場合が日本人の自然観やものの考え方、そして日本の文化、日本人と自然のかかわりなどのテーマです。つまり、国語とは日本の歴史、文化、言語などを通じて日本や日本人のことを再考し、自分のアイデンティティー(自己同一性)を発見することなのです。
日本は終戦を迎えて60年の歳月が経とうとしています。その間に経済は発展してきましたが敗戦という名の下に自虐的な精神を植えつけられました。日本のいいところや日本人のよさも敗戦とともに奪われてしまいました。この夏、日本の政治も大きく変わろうとしています。さまざまなことをいろいろな視点から家族で対話していただくといいと思います。


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ルーティーンを作れ

日常の生活の中で人は決まった流れの中でほとんど無意識に同じ行動様式をとっている。それを英語ではルーティン(rouotine)と言うが和製英語ではパターンと言っている。どのような複雑な仕事も作業も必ずルーティンがある。そのルーティンを習得したものが専門家としてやっていけるのだろう。学習とはそのルーティンを習得することであって研究とは新しいルーティンを見いだすことである。

学生が通常行っている勉強はかなり古典的な要素を多く含んでいて皆が思うほどたいしたことはない。なぜならそれらは大抵、何十年も前に、ひょっとすると何百年も前に発見されたルーティンだからである。ほとんど舗装された道を行くようなものだから真面目に取り組んでいさえすればさほど問題はないはずである。

ルーティンの語源はルート(route)、「切り開かれた道」、ルーティンは「いつもの小道」という意味だ。いつも行く道ならば間違うことも滅多にないだろうし、危険な箇所も肝心な箇所も要領を得ているだろう。学習とはまさにそのことで数学の方程式、微分積分、外国語、さらには楽器、スポーツさえもルーティンで成り立っている。医者の手術にしても決められたルーティンを速く正確にこなしているに過ぎない。F1のレーサーにしてもハンドル操作、アクセルワーク、ブレーキワーク、状況判断など彼らが持つ独自のルーティンがなせる技なのだ。イチローのバッティングにしても彼の持つ独自のルーティンのおかげであれだけの成績を収めている。料理にしても下ごしらえから始まり、火加減、塩加減、手加減がルーティンとなっておいしい料理に仕上がっていく。そこに迷いがあってはならない。一般人が簡単に真似ができないルーティンだからこそ希少価値のある高いレベルのルーティンとして認められているのだ。

成績を今より上げたいのならば今とは違ったルーティンを作らなければならない。試験前にいつもと同じ道を歩めばいつもと同じような結果にたどり着くに違いない。自分の成績が今一歩のところで足踏み状態ならばルーティンを変えなければならない。それなりのルーティンをこなさなければ満足いく結果は得られるはずがない。

「勉強のやり方が分からない」という声をよく耳にする。それは「ルーティンの作り方が分からない」のではないだろうか。目をつぶっていても歯は磨けるだろうし、あまり考えなくても学校から家まで帰ってこられるだろう。どうしても難しいと思われる問題があったら迷いがなくなるまで取り組めばいい。目をつぶってもイメージが湧いてきてイメージの中でシミュレーション(模擬実験)ができないといけない。問題を見ただけで解法の手順が思い浮かび、解答までのルートが切り開かれていく。試験前には、一度やった問題は数秒でシミュレーションできるようにしなければならない。まずイメージの中で成功しないと現実での成功はあまり期待できない。

ルーティンを支えているのはイメージなのだ。こんな感じでというイメージで何事も始まる。イメージを思い浮かべながら、あるいは手引き書を見て戸惑いながら現実が具現化していく。そして、次第に慣れてきて先行するイメージとそれに続く現実がほぼ同時に行われるようになる。同時性が重ね合わされば合わさるほどそれは高次元のルーティンとなり匠の技になりうるのだろう。

いかなる所作(職業)にしても必ず何らかのルーティンがあるのなら自分の好きなルートを選んでいきたいものだ。やっているうちに慣れてしまえばたいしたことがないのなら慣れるまでの辛抱。何事も新しいルート(道)を切り開くのは大変だ。しかし、自分のルート(人生)は後戻りできないから頑張ってルーティンを作っていかなければならない。
英語のことわざにPracticemakes perfect.習うより慣れよ、というのがある。練習を重ねていけば完璧になるということだ。夏休みを前に自分のルーティンを考えて、それを実践していきましょう。


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今こそ開拓者精神を!

力にはいろいろな力がある。物理的な力から精神的な力まで包括すれば数えるのが大変だ。しかし、これだけは人には負けないという力を身につけておくことが生きていく力になる。世の中を生き抜いていく力になる。重いものを持ち上げる力、機敏に動く速力、決してあきらめない忍耐力、発想力、想像力に創造力、人を引っ張っていく指導力、集団をまとめ上げていく統率力、他の集団と交渉する外交力。そういったさまざまな分力が一つの大きなベクトルになった時、ものすごい合力が得られるのである。それがバランスのとれた社会になっていく。それは数人の小さな会社から大企業、さらには国家までも同じような体系を必要とする。
17世紀、米国建国の祖となった清教徒たちの一部がピルグリム・ファーザーズとして渡米した後、宣教師、漁師、毛皮商人、農民等が未開拓地をめざして新大陸(米国)に移住し、さらに西方に進出していった。このフロンティアの西進は米国発展の象徴とされ、そこに生まれた進取(自分からすすんで物事をすること)、積極、実力重視などの特性を持つ開拓者精神は民主主義の発展に大いに貢献したとされている。みなで協力して荒れ地を更地にして教会を建て、学校を建て、道を作った。個人の家もみなで協力してあっという間に作った。畑も開墾した。つまり、街を作ったのだ。みなが自分のできることをした。そして街はみんなの活気に包まれていた。
社会が発展し進化すると開拓者精神がどこかに忘れ去れてしまいがちになる。自分のすることだけしていればいいという進取の精神とはかけ離れた退嬰的なムードが漂い始める。自分の能力以上の報酬を手にする社員が多くいれば会社が次第に斜陽となるのは必然なのだ。だんだんと会社組織のバランスが崩れ始め、歪み、最後には倒れる。日本の社会も学歴主義から実力主義へと変わりつつある。どこの大学を出たかではなく、何ができるか、何をしてきたかが問われ始めている。

まず、何をすればいいのか。するべきことをきちんとする。きちんとするというのが案外難しい。提出物でもテスト勉強でも無意識に手を抜いてしまうことがあるからだ。手を抜いた分だけ自分の将来の選択肢(可能性)は狭くなっていく。ただ目に見えないから平然としていられるだけだ。もし、その手抜きが目に見えて実害のあるものだったら、そのいい加減さはきっと激減するだろう。手を抜いた分だけ罰金制にして1ポイントいくらと換算できるように想像力を働かせてみるといい。きちんとできないということは、自分の将来の可能性という財産をいとも簡単に無駄にしているのと同じことだ。
旅は今ではツアーコンダクターの旗の下に多くの人がいていろいろな解説やエピソードを聞いて楽しいイメージがあるが、もともとは旗とは軍旗を意味した。つまり、生きて帰って来られる保証はなかった。英語で旅はtravel(トラベル)。語源は古フランス語でtravaille(トラバイユ)。「苦労して働く」という意味だ。「開拓者精神」なんて言うと今でこそ、かっこいい、魅力のある響きがある。しかし、何もないところで自分の生活を始めることは想像を絶するほど厳しい。何事も失敗の連続だろうし、その結果食事もままならないこともあるし、天候にだっていじめられる。まさに命がけの生活だったろう。だからこそ、みなが一丸となって開墾する者、耕作する者、普請する者、料理する者、子守する者、指導する者、さまざまな分野で一人一人が全力を尽くした。それが個性であり、生きる力となった。
本来の意味を咀嚼して、かわいい子には旅をさせてみましょう。子どもは旅立てるように進取する姿勢を持ちましょう。
中学校はそろそろ前期試験の中間考査が始まる。学校のワークブック、提出物、プリント類をきちんと仕上げること。それができたら間違えた箇所を完全できるようにきちんとフォローしておくこと。分からないところがあったらBAUの先生に分かるまで質問すること。それができて試験対策が「きちんと」できたということになる。自分の誠実さが試される。


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進化を目指して自己開発

人間は日々変化している。身体的にも精神的にも少しずつ変化している。身体的な変化は目に見える具体的な変化であるため分かりやすい。身長が何センチ伸びたとか体重が何キロ増えただとか胸囲が何センチ大きくなっただとか記録にもはっきり表れてくる。一方、精神的成長は内面性に関わるので年齢に比例しているとは言えない。つまり分かりにくい。しかし、通常、年齢に比例して身体の発育と精神の成長はある程度一致していくべきものである。なかなか見えにくい精神的成長をなんとか見ようというのが心理テストや適性検査であったり学校や会社の面接試験であったりするわけです。
目に見えて分かりにくいためこの精神的成長はとてもとらえどころがなくつい曖昧にしてしまいがちですが、各個人のエネルギー源になる大変重要な部分です。目に見える具体的な部分が植物の地表から上の部分だとすれば精神的成長は地下広く、深くに伸びていく地表から上を支える部分なのです。
精神的変化はどういうときに起きるのでしょうか。それは刺激に大いに影響を受けます。今までに経験したことのない刺激が脳に与えられると脳はそれに反応します。次にはそれに順応しようと準備するのです。子どもの脳の適応力はとても優れていて、敏感で反応力も速く順応性も高いのです。ですから子どもは朱に交われば赤くもなるし門前の小僧にもなれるのです。
刺激もいつも同じだと次は変化をきたすような刺激にはなりません。「飽き」が来るのです。三日坊主とはよく言ったもので確かに三日も同じことをしていれば大抵の人は飽きてしまうのです。飽きが来ないように刺激を多少大きくしたり、違ったところを刺激されながら人間の脳は変化していくのです。脳を活性化するために人間に備わっているのが好奇心です。好奇心には冒険心もあるでしょうし向学心、探求心も含まれます。それらがある限り人間の脳は常に活性化できるのですが、人が年齢を重ねていくと大抵のことには驚かなくなって感動が少なくなりがちです。自分から何か心がわくわくするものを探しだしチャレンジできる人はいくつになっても若々しく魅力的なのです。
「飽きさせない」という観点から手練手管を駆使してコマーシャルベースに乗せたのがゲームです。刺激の度合いがだんだんと強くなっていって最後まで飽きさせることなくゲームを終了させる。ゲームの中にはアイテム(武器のようなもの)を売買してまでやり続ける人もいるのです。ゲームで刺激を与えられた脳はゲーム脳と呼ばれ前頭前野の発達に障害をきたし、記憶や論理的思考を阻害し、情緒不安定になるともいわれています。つまり正常な脳の発達ではなくてまさにバーチャルリアリティーなのです。

ゲーム脳に侵されているのはひょっとしたら子どもだけでなくテレビ漬けになっている大人たちもその危険性があります。最近の犯罪に関するニュースを見ていると中年から高齢者にも凶悪犯罪が頻発しています。人間はいくつになっても精神的成長を心掛けないと情緒不安定になり精神状態に赤信号がともりかねないのです。
正常な脳の発達(精神的成長)はやはり大人が手間をかけて子どもに与えなければなりません。なぜなら子どもの世界は大人に較べると狭く経験も少ないからです。情報量も少なくどうしても大人に依存しなければ一人前になれないのです。日本のことわざにも「かわいい子には旅をさせよ」というのがあるし英語のことわざにも「鞭を惜しめば子どもが駄目になる」というのもあります。小さいうちは親の背中を見ながら一緒に旅をしてもいいし、大きくなったら一人で旅に出すのもいいでしょう。
変化するためにはそれだけのエネルギーが必要です。冬を耐え抜いた植物が春に芽を出すように人間も変身するために忍耐が必要なのです。その忍耐がないと変身できないようにできているのです。進化して次のステージに進めるのは人間の脳にとても気持ちのよい刺激が与えられます。しかし、それには我慢が必要です。自分をコントロールする能力が求められます。
日々の学習でも成果があるかどうかは変化があったかどうかなのです。何かを学んで刺激を受け、それによって学ぶ前の自分と学んだ後の自分が確実に変わっていることが進化なのです。つまり、自分を含めた環境が少しづつ変わり、その微々たる変化の連続が大きな進化につながるのです。
パソコンの使い方を学び、覚えればインターネットを通じて劇的に世界が広がるでしょう。しかし、中味(自分力)がないとネットからちょっと必要なものだけをひっぱって小さな自己満足しかえられません。表面的な変化を求めるだけでなく、それに伴って内面的変化を促すエネルギー(忍耐力)をためておくことが成功を収める秘訣なのかもしれません。

開発の手を休めてはだめだ。金はなんとかする。
理想科学社取締役
羽山 昇

技術開発をあきらめない会社は絶対伸びる。 
東京都民銀行
陶山 繁弘


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コミュニティーの中のBAU

教育現場の空洞化、学力の低下、さらに犯罪の低年齢化が叫ばれている中、子どもに一番必要なことは自分の存在感ではないでしょうか。存在感とは自分の存在を認めてもらうことなのです。愛情と厳しさを宿したやさしいまなざしで自分を見守ってもらうことを欲しています。反抗期も自己の確立をする上で必要な時期なのですが、それは同時に自分のバランスを計るための挑戦でもあるのです。未熟ゆえつい暴走しがちですがどこでストップをかけてもらえるかを待っているのです。ところが、甘やかして育ててしまい自由を与えすぎてしまった結果、その反抗に対応できず手をこまねいているのが現状のようです。
今日の子どもたちはまるで自分たちの居場所を求めてさまよっている迷える子羊のようです。深夜まで営業しているカラオケボックスやコンビニ、スーパーの駐車場。あまり親がうるさくない友達の家。そういった場所で自分の存在をアピールしているのです。しかし、迷える子羊も居場所を間違えるといつの間にか手がつけられない状態になってしまうのです。良かれ悪しかれ環境に順応するのが早いのです。数年前までは素直そうな子どももあっという間に眉毛がなかったり、整えていたり、髪の毛が変色していたりで驚かされることあります。
自由と不自由のはざまの中で自分の存在を見つけていくことが社会性を身につけていくことだと思います。そして自由を得るためにはそれ相当の努力が必要であることを身をもって理解せねばならないでしょう。社会に出ればいろいろなことがある。甘やかされていれば現実の厳しさにこっぴどくやられてしまう。現在引きこもり(ニート)の数は全国で10万人をこえていると言われ、2003年度の自殺者は過去最悪の約3万5千人となっています。かつては地域社会が子どもたちを見守り育んできた。もちろん今でも子どもたちの育成に尽力してくれている地域社会の人たちもいるでしょうが、地域住民の核家族化がすすみ人々の生活スタイルも多様化した。
その結果、地域社会におけるコミュニティーの結束力は弱くなってしまいました。
BAUは子どもたちの進路をサポートするための「学ぶ場」としてだけでなく、子どもたちが育っていく「育成の場」として地域社会に貢献していけると自負しております。教え育むことが教育であるいじょう自分の未来や生き方までも生徒と師が膝を交えて話し合ったり、先輩や後輩たちと交流していくことが子どもたちにとって光り輝く青春の大切な美しい一ページとなっていくと思います。




人は旅に出て孤独になる
今まで懸命にまとったものを
一枚一枚剥がされ
追いつめられていく

小さくて
弱くて
情けない自分が
本当の自分と出会う

つらくてみじめで
さびしい瞬間を迎える
でもそれが君だよ
愛すべき自分の姿だよ

旅はにっこり笑って
君に手を差し出してくれる
さあ、また歩き出そうや


(2004年 台北にて)


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地震、雷、火事・・・ ~怖い人の存在価値再考~

一昔前、怖いものの代名詞として地震、雷、火事、親父と列挙されたものだ。昨今では確かに地震、雷、火事は怖いがその次に身近な存在として怖いものが父親に代わって何になったのだろう。いや、ひょっとしたら怖いものなんてもう存在していないのかも知れない。学校も完全に威厳を失い、警察も次第になめられてきた。人間、どこかに恐れおののく存在がないと冗長慢心してどんどん傲慢になっていく。
周りが甘やかしすぎる。小さいうちに自分の思い通りにならないことを経験してないからだ。父親の背を見ながらの山登りでもいい。スキーで思うように上手く滑れない経験。サッカークラブやリトルリーグで頑張っているのになかなかレギュラーになれない経験。人間関係も次第に複雑になり協調性も出てくる。わがままが通らない環境にさらされる。そういう小さな挫折を重ねておくことが大きな挫折の予防薬になる。子供は自ずから成功するためにはそれなりの裏付けとなる努力が必要であることを経験から学ぶのだ。そういう経験が少ないまま育ってしまった子供は自分の我が儘がまかり通ってしまうかもしれない。しかし、年齢を重ねるにしたがって社会の厳しさにさらされると、急に自分のわがままが通らなくなってしまう。わがままを聞いてくれるのは「優しい(甘い)親」だけになる。
日本は古来から多神教国家で八百万の神がいたるところにいて自然を崇拝してきた。山の神、海の神、湖や川、木の神などに畏敬の念を抱いてきた。農耕民族であるために少しの天変地異にも収穫が左右され、平穏無事に収穫ができることに感謝をし、また翌年の豊作を祈願した。山や海や川、湖にむやみに入っていって汚したり、御神木を切ると祟りがあると恐れおののいた。そうやって日本人は自然と調和し共存してきた。自然との調和を守り、野性の動植物も大切にしてきた。稲作の歴史は古く弥生時代にまで遡る。今から三千年前にはもう日本のあちこちで稲作が営まれていた。稲作とは非常に高度な技術が必要だという。手間隙がかかることはもとより、なんの化学肥料も農薬もなく害虫と闘いながら収穫を増やし続けてきた。パンの原料となる小麦栽培の数倍のハイテク技術が必要だった。

それも自然を畏れながら自然の一部である人間のすることに謙虚だったからできた業だと言えよう。
今日の日本には大人にも子供にも怖いものは自然災害を除いてなくなってきているようだ。壊れているのは子供だけでなく大人も同様だ。異常とも思われる事件が日常茶飯事に頻発している。増加しつつある凶悪犯罪を自己防衛の名の下に銃所持も許されることになりかねない。アイデンティティー(それが、他とは異なる、まさにそのものであるということ。自己同一性)を失った日本はどこに向かっているのだろう。
大人は子供に嫌われることに弱腰になりすぎた。大人自体が自信を失い子供との接し方に戸惑っているのかも知れない。「ゆとり」とか「子供を褒めて伸ばす」というスローガンに踊らされて実際は甘やかしすぎたのではないだろうか。褒めることはいい。ただし厳しさの中にあってこそ、その価値があるのではないだろうか。褒めることが日常になってしまっては親や教師が子供に対して気づいた点を注意したりアドバイスしたりした時に素直に聞く耳を持てるだろうか。ちょっとしたことにも我慢のきかないキレやすい子供になっていくのも当然の成り行きかも知れない。親も教師も祖父母も子供に嫌われることを恐れてはいけない。どんなに嫌われても子供に対して毅然とした態度で厳しく接するべきだと思う。全責任を負う覚悟をするべきだ。恐い存在に敢えてなろうではないか。なぜ恐いと思うのか?それは注意深く見られているからだ。注意深く見るには大人も忍耐力がいる。子供を育て、自立させることは社会の責任であるし大人の義務でもある。大人も子供も頑張ろう!


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子の心親知らず

マリア・ジョアン・ピレシュ。彼女は1944年にポルトガルに生まれた。3歳でピアノを始め、5歳で最初のコンサートステージに立った。以来天才ピアニストとして世界の注目を集めている。リスボン音楽院やミュンヘン音楽アカデミーで学び26歳の時、ブリュッセルで開かれたベートーベン生誕200周年記念コンクールで優勝。その後ベルリンフィルやボストン交響楽団など世界中のオーケストラと共演。日本にもたびたび訪れ聴衆を魅了している。
彼女の主催するベルガイシュ芸術センターではピアノを教えるだけではなくピレシュ自身が世界中から集まった若い演奏家たちと生活を共にし人間として彼らと語り合います。芸術とは日々の生活を通して達成するものという彼女の信念に基づている。
彼女は生徒に対話しながら教える
歌えないのは何かを恐れていて咽が締め付けられているからよ
曲を弾く時に構造やモチーフ、展開などにこだわらずに曲の持つファンタジーを感じながら弾くのよ
転調に注意して対話をしているように
構造化しすぎると聞くことができなくなるわ
急がないで
脱力して常に新しく生きること
音楽と対話するのよ
もっと響かせて、恐れずに
時間と空間の感覚を大切にするのよ
狭いところに閉じこもっていないでもっと広い空間を見渡すのよ
ちいさい四角にこもらずに思い切って
どう表現するかはあなたの問題よ
聴衆の気持ちにならないとリズムは表現しきれないわよ
弾き分けられないと音楽が単調になりコミュニケーションがとれないわよ
対話ができなくなって聴衆が眠くなってしまうわ
呼吸、間、歌に気をつけて
音楽はもっとシンプルなものよ
枠にはまった生徒の心を解きほぐすかのように指導している。マニュアルや固定観念を捨てることを恐れず、思いっきり自由に自分を表現することを教える。今までにまとった重い衣服を一枚一枚剥がしていくように彼女の指導は続く。教育って何だろう?子どもに重たい衣服をまとわせることに大人が躍起になって案外大人の感性を子どもに押しつけてはいないだろうか。

マニュアルという重たい衣服をまとわせるのではなく、もっと自由に自分を表現させ、もっと自分を響かせていけるようになるのが親や大人の義務のはずだ。対話(コミュニケーション)は同じ目線で行われなければ間がとれず流れが悪くなる。子どもに近すぎればうっとうしがられその上、一人で生きていく力が弱くなってしまう。遠すぎれば姿が見えず迷ってしまう。近すぎず離れすぎず適当な距離感を持ってリズムよく、時には早く、時には、遅く、さらに時には立ち止まってみる。そういう心地よい距離感が今の親子、師弟の間に求められている。心地よいとは快適という意味ではない。そこには愛情という絆が確固として存在し、その上でどんなに叱っても絶対に崩れることのない信頼関係の状態のことを言う。
教えるとはどうしても一方から一方へと流れる方向性があるからそこに厳しさがあってしかるべきなのだ。厳しさの度合いが信頼関係の強さだということだ。厳しさを教えるのは愛情がいるし覚悟もいる。「厳しさ=愛情」の代わりに「甘さ=放任」で子どもにゲーム機を与え携帯を与え、お金を与えて、その代償としてお子様に勉強して頂くという図式が成り立っている家庭は驚くほど多い。しかし、その図式は当面は有効だが長続きはしない。
地表の収穫だけを行えば根が絶える。地表の樹木を支えるためにはその何倍もの地下の根が存在する。枯れずに生き続けることができるのは地下と地表のバランスがとれているからだ。この法則は森羅万象すべてに成り立つと思う。人間も目先の欲に囚われて、すぐに収穫に目がいくとその樹は枯れることになる。ソニーの盛田昭夫氏がアメリカの大手電気会社にソニーを身売りしていれば今のソニーはなかったのだ。
大人になると人から教育されることはめっきり少なくなる。何かを習っている場合や学ぶ場があればいいのだがなかなかそういう機会がないのが現状だろう。四十の手習い。何でもいいから何かに取り組んでみるのもいいだろう。そうすれば自分もうまくいかないこともあるだろうしストレスもたまることもある。うまくいった喜びも、うまくいかなかった時の挫折感も味わいながら何か仕事以外に趣味を持つと、さらに視野が広がるかもしれない。子どもも試験でいい結果が出せないで苦しんでいる時もあるだろう。いい結果が出て喜々としている時もあるだろう。そんなとき、大人や親は子どもに何を伝えただろうか。何が大切だと教えてきただろうか。大人も親も自省し内省してみるいい時だ。
マニュアルはいらない。自分の信念で子育てすればいい。ピレシュがそう語っているように聞こえる。


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反省と前進

いい高校、いい大学、いい会社に入ることが必ずしもいい人生目標とは言えない時代になった。そういう意味では「ゆとり教育」は社会に一石を投じただろう。しかし、その中味が充実していなかったため犠牲にしたものが甚大である。国際学力調査の結果からも明らかなように日本は小中学生の学力で世界のトップから脱落してしまった。
確かに日本の教育は高度経済成長に併走するように「知識偏重」路線をひた走った。大人(親)が仕事に追われてなかなか自分の子どものことにかまっておれず学校任せにした。子どもの数も多くて放任的なところもあった。しかし、学校の先生はとりあえず恐い存在でいてくれ、親もいざというときには「先生に言うよ。」というとどんなガキ大将も震え上がったものだ。それだけ教師に対する信頼も親睦もあった。教師もそれに応えるべく生徒の学習面はもちろん生活面もしっかり指導した。
現在は教師の指導力や教科の教授法が問われている。しかし、その前に生徒との信頼感が必要なのではないだろうか。そのためには全力で生徒と正面から立ち向かい、受けとめるだけの覚悟がいる。もちろん親には子どもと向き合い独り立ちさせる義務がある。それを親も教師もどこかで押しつけあっていないだろうか。連帯責任は無責任になっていないだろうか。
子どもの面倒を見るのはモノではダメだ。テレビでもゲームでもパソコンでも携帯でも親の代わりはできない。子どもに部屋を与え、テレビをあてがい、ゲーム機器を持たせ、携帯電話まで持たせ、責任のない自由を無制限に与えてしまった。その結果、子どもたちは親の希望通り素直ないい子どもに育ったのだろうか。逆に今度は自分たちの自由を奪うものなら猛烈に反発し家庭内で暴力をふるったり、部屋に閉じこもったりするようになった。
ここで親も教師も子ども(生徒)に向き合うとはどういうことか反省し教育を与える義務を再認識してみるべきだ。生徒が授業中うるさくても寝ていても携帯でメールしていても放っておくことがふつうになってきた学校の授業風景。図書館や病院、公共の場所で親がついているにもかかわらず騒々しく迷惑な子ども。面倒くさがらずにしっかり注意していくのは大人の義務だろう。最初は子どもに「よかれと思って」してあげていたことが、いつの間にか「することが当たり前」になって、そのうち「してあげなければならない」ことになっていないだろうか。子どもに体よく利用される使用人になっていないだろうか。朝も起こさないと自分で起きることのできない子ども。料理も親がいないと自分で何もしないでいつまでもお腹をすかしている子ども。そういう子どもに対して「ごめんなさいね。」と謝罪する母親。本末転倒も甚だしい。親の子育ては子どもの自立を促すためのものであるはずだ。
自立(巣立ち)とは、自分の足で歩き、走り、自分の目で危険を察知し、回避し、自分の手で食糧を手に入れることだろう。それから自分のパートナーを見つけ子孫を残す。自分でするべきことを親が代わってしては子どもの成長を助けるつもりが裏目に出て、「助長」することになりかねない。最初は手間でも、子どもが自分でできるまで辛抱強く待ちましょう。BAUでは「学習指導は生活指導から」という方針で生徒と向き合っています。挨拶、礼儀、学習に対しての粘り(我慢)など親身になって指導しています。
『好事魔多し』何かを成し遂げるには多くの邪魔が入るものです。せっかく入った高校も気に入らないからとあっさりやめてしまうことが多い。「ゆとり」教育の名の下に手を抜いてきた結果、また好きなことをすることが個性を伸ばすことだと奨励された結果、我慢のできない人間が世の中に大量に輩出されてしまった。我慢ができないから刹那的な快楽や刺激を求める傾向がどんどん強くなってきている。映像やマンガで育った人間は必然的に具体的なイメージを相手から一方的に与えられるから、自分のイマジネーションは乏しくなっていくことになる。その結果が学力の低下でありモラルの低下であり犯罪の増加だろう。

多くの人間が薄っぺらな教育やマスコミなどの影響を受け短絡的思考になってきた。そのうえIT化が拍車をかけた。マスコミのプロパガンダに大衆が踊らされ、ここ数年はバッシング(大衆の個人攻撃)と「自己責任」という言葉が先行した。ブロードバンド化した溢れんばかりの情報はいとも簡単に人の判断を鈍らせ誤らせる。インターネットの情報はすべて正しいのだろうか。とんでもない。かなりの確率で虚偽があると思って間違いない。確かにたくさんの情報が簡単に手に入るようになったが、一方で自分の情報もいとも簡単に外に漏れているということだ。さまざまなところから個人情報が流れ(売られ)犯罪に悪用されている。
オレオレ詐欺、振り込め詐欺、オンライン詐欺、やせ薬詐欺、偽装カード、さらに偽一万円札など人を騙すことに何の罪悪感もなく多くの犯罪が横行している。「騙すより騙される方が悪い。」そんな声が聞こえてきそうだ。
いやな世の中になったものだが、鋭い洞察力で情報を取捨選択し、温かい気持ちで信頼のおける付き合いを大切にしていくことがさらに求められる時代になった。昔ながらの気が置けないご近所づきあい、気ごごろの知れた商店の人たちとの会話、洒落たカフェ、なつかしく美しい風景。街も人間も個性を取り戻したい。


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もっと字を丁寧に ~創造的なノートへ~

最近、生徒のノートを見ると書かれている文字があまりにもきたないのに驚かされることがある。きたないというより整っていないというか落ち着きがないという印象なのである。「字は人を表す」の通りそういう生徒は、間違いなく落ち着きがなく、我慢がきかない。もう一つの特徴として、自分の書く文字に対して無頓着、無関心、無責任であるようだ。ほとんどの生徒がシャープペンシルを使い、その字が細く薄い。まるで自分の存在の軽さを自分で認め、アピールしているかのようだ。ペン字検定のようにきれいな文字を書ければそれに越したことはないが、まず自分の書く文字には責任と自信を持ってもらいたい。ご父兄の方は自分の子どもの成績表や通知表は気になって見ることがあると思いますが、実際にノートや答案をご覧になったことはあるでしょうか。ちょっと難しい漢字があるとすぐひらがなで書き、ノートの空いているところにはマンガらしきものが描かれてあったりする。これではなかなか身に付くものも身に付きにくいだろう。
2001年バウタイムズ6月号は「鉛筆を使おう」というテーマでした。今号では「鉛筆を使って字を丁寧に書け!」と言いたい。太くしっかりした字で自分の思いを込めて、丁寧に書くことが基本だと思う。最近では年賀状も手書きのものがめっきり少なくなり、ほとんどが印刷で手軽に済ます。手で書くという手間がかからなくなってまさしく手軽。さらに言えば手抜き。携帯の普及やパソコンの普及で人の書いた文字を見る機会が本当に少なくなった。だからこそ、個性あるしっかりした文字が希少価値となってくる。
文字を丁寧に書くようになってくるとノートの取り方も変わってくる。ただ板書するだけの機械的な単純作業から本当に理解しているか自問したり、大事なところは空けておいて問題を作成しながらノートが取れるようになると思う。数学などで応用問題を解く時、数字を眺めているだけではどうしても思考力が働かないことが多い。そういう時こそ、絵を描いて欲しい。自転車で時速何m、歩いて時速何m、家から駅までの距離何m。ノートに絵が描かれている生徒はほとんどいない。歴史でも何年に何があっただけでなくそれ関する人物画、建築物、内容など想像しながら描いてみるといい。きっと驚くほど記憶に残るはずだ。それに次につながるイメージも湧いてきて、スラスラと鉛筆が進む。魔法の鉛筆になる。
「よく勉強のやり方が分からない」という生徒もいるがそれは裏を返せば想像力がないのと同じで、想像力(イマジネーション)がなければ創造力(クリエイティビィティー)は決して生まれない。

実は、この想像力が大人にとっても子どもにとっても、とても大切で次に何が起こるかという変化をイメージできるのである。こうすればきっとこうなるぞという期待感や、ああするとこうなって後で困ることになるぞという倫理観のイメージを促す。
例えば、創造力の欠けているものが短絡的な事件を起こしやすく、本人だけが罪をかぶるだけでなく家族や親戚にまで迷惑がかかる。
{ちょっとおもしろいから万引きしてしまおう}
{いや、まてよ。万一、捕まったら親が呼ばれて学校にも通報される。それにうまくいったとしてもここにいる誰かが自慢げに話してしまうことだってある。}
{そうしたら一生、人からあいつは万引きしたことがあると思われる}
{警察と学校は連携を深めていて情報を開示してるって聞いたし・・・}
{なんて馬鹿なことを考えたんだ。}
というメンタルフロー(心的回路)が一瞬のうちに流れるはずだ。想像力は、犯罪の抑止力につながる。
生徒一人一人にみな個性がある。その個性の表出したものの一つがノートだ。同じものをまるっきり写すような野暮なことはしなくていい。芸術的なノートを創ってみよう。色鉛筆を使う。クレヨンを使う。筆を使う。隠しテープを使う。ノートを斜めに使う。たまには左手で書いてみる。個性豊かなノート作りをしながら自分の個性をさらに魅力的なものにしていく。ノートは学生時代の大切な自分の歴史そのものだから。それに加えて成績もイメージ通りに上がるなんてとてもいいと思いませんか。
鉛筆は2Bがお薦めです。手が疲れなくて眼も疲れなくて心も癒されます。


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格差

中国の都市部と農村部の経済格差がどんどん進んでいる。農村部の平均年収は7万円、都市部の出稼ぎ労働者(民工)はその10倍の70万円。しかし都市部の会社の幹部は年収が数千万円から数億円に達するという。中国は社会主義の国で20年前はみなが一様に裕福ではなかった。それほどの格差は見られなかった。しかし先富主義といって先に富めることができるものは裕福になってもいいという中国政府の政策によって中国は表面的に繁栄している。その繁栄ぶりは東京を超えたと言われている。
上海郊外に富人区という住宅街がある。一軒の値段は平均2億円。中には10億円を超えるものもある。
中国の経済発展の原動力として安い労働力があげられる。地方からの出稼ぎ(民工)で上海の高層ビルはどんどん建築され、海外資本の工場も中国の地方の女性を雇って人件費をかなり安価なものにしている。月給は平均して一万三千円である。時給に換算すると50円~60円。つまり中国の繁栄はほんの一部の人間のものでありその他大勢の犠牲の上に成り立っているといえる。農村部では一人の子どもを大学に入れるのに入学金として約8万円かかる。それは平均年収の7倍にあたる。せっかく大学に合格しても進学できないということもある。貧乏で公立学校に行けない生徒は民工学校といって格安の学校に通わざるをえない。そこでは自ずからたいした教育機材も教材もないから行き届いた指導はままならない。それに対して都市部の私立学校は入学金が50万円。生徒一人一人にパソコンも供給され、小人数編成の英会話クラス、さまざまな面でのエリート教育がなされている。生徒はハーバード大学などの世界一流の大学を目指している子がほとんどだ。
さらに中国では戸籍問題が格差に拍車をかけている。農村戸籍と都市戸籍がある。農村戸籍の人は定められた期間のみ都市部に出稼ぎに行くことができるが都市に住むことはできない。農村戸籍から都市戸籍を取得するためには子どもが高等教育を受けて大学へ進学しなければならない。貧困のサイクルから抜け出すことはほとんど不可能だ。農村からの出稼ぎ労働者の子どもたちは公立学校に行けず民工学校に行かざるをえない。学校にもパソコンは一台。生徒はほとんど全員が都市の公立学校に進学を希望するが都市部の中学に進学できるものはほとんどいない。そうなると農村に帰ってそこから厳しい中でまた都市部の大学を目指さなければならない。中国で貧困層から抜け出すことは限りなく難しい。
中国には「一人っ子政策」という出産制限がある。二人目からは多額の税金がかけられ、農村部では二人以上の子供を持つことは実質上無理だ。まるで貧困層は「子どもを生むな」と言わんばかりだ。税金を支払えないので戸籍を持たない子供も多くいるということだ。

この経済格差は次第に緩和されていくのだろうか。現実的には格差は広がっているという。競争(格差)が中国の経済の原動力となり都市部の発展を支えているのは分かるがそれがどの方向へ行くかはとても大きな問題だ。「貧しさのために教育を受けられず、教育を受けられないために貧しさから抜け出せない。村は貧しさの悪循環と闘っています。たとえ出稼ぎに行くにしても学歴がなければだめです。企業は少なくとも中学卒業を求めています。なんとかできる限りの教育を受けさせましょう。村が食べていくにはそうするしかないんです。もっと将来に目を向けて下さい。このままではどうしようもありません。」上海から内陸へ1800㎞、寧夏回族自治区の中庄村。一人あたりの年収は平均一万三千円の村だ。村長の閻生棟さん(29歳)は真剣なまなざしで村人に熱く語っている。
いったん生まれた経済格差、教育格差はそう簡単には緩和されないだろう。一度手にした既得権益を誰がたやすく他人に明け渡すだろうか。それは資本主義の行き着く先であり官僚主義の栄華で終結し崩壊する可能性が大きくなる。みなが貧しい時は優秀な官僚によって全体が豊かな方に導かれていく。しかし、資本主義がある程度成熟してくると官僚が自分の権益を守るようになる。自分の天下り先をきちんとつくっておく。自分たちで法律を決めるのだから都合の悪いことは目をつぶり、庶民から取れるものはなんでもいいから取る。日本でも国会議員が年金を納めていなかったり、秘書給与を流用したりしながら国民からは消費税、介護医療費などどんどん搾取する。自分たちの利益を得るために出した損失はのちのち愚かな大衆からとればいいと考えているのである。環境税、酸素税、トイレ税など出てくるかもしれない。
今年日本には台風が10個上陸し甚大な被害を出した。最近では新潟県中越地震でも壊滅的な被害を出した。多くのボランティアの人も応援に出かけ援助物資も多く集まり、多くの義援金が集まっている。しかし、行政の対応は?本当に困った時に困っている人に税金を投入してもらいたいものだ。メガバンクや巨大企業を救うために多額の税金を無尽蔵に投入しているのに被災地には「がんばって下さい」ではあまりにも寂しい。


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イチローに学ぶ

シアトル・マリナーズのイチロー選手(鈴木一朗)が大リーグのシーズン最多安打記録を更新した。その数262本。各メディアはイチロー選手の記録更新を一斉に報じ「歴史を塗り替えた」と最大級の賛辞を贈った。
イチロー選手が海を渡ってアメリカに行ったのは2001年だった。日本では7年連続首位打者、年間最多安打210本などのプロ野球記録を打ち立てていたが、大方の前評判は「本場の速球には通じない」「3割打てれば大成功」といったものだった。ところが1年目に最優秀選手、首位打者、新人王、盗塁王を総なめにした。2、3年目も3割、200安打以上をキープしメジャー屈指の1番打者になった。

常に探求心を忘れない姿勢
イチローのバッティング技術に関する探求心はすさまじい。バッターボックスは彼にとって最高の実験場であり投手の投げるボールが絶好の実験材料になっている。バッティングという行為を通して彼はほんのわずかな、数ミリの誤差をも感知するような触覚を身につけた。
アメリカに渡ってから日本にいる時のバッティングフォームの改造を余儀なくされた。それまで大きく弧を描いて上げていた右足をまっすぐすっと上げるフォームに変えてバットを何度も振った。鏡の前の素振りと試合での実践を何度も繰り返しながら自分の感覚と実際の感覚を重ね合わせる作業を繰り返した。妥協を許さない探求心がイチローを支えている。「自分は当たり前のことをしているだけです。なぜみんなが自分を天才と呼ぶか分かりません。」彼のコメントは素っ気ない。
シスラーの記録を更新した直後のインタビューで次の目標を尋ねられて彼は言った。「次のヒットを打つことです。まだ終わりじゃないですからね。」

他人の期待から決別する
イチローは他人の評価をあまり気にしない。だから失敗しても落胆しないし成功してもあまり喜ばない。彼が意識しているのは自分自身のプレーが満足のいくものであるかどうかである。どんな局面においてもイチローが自分を相対評価することはない。
「他人の評価ほど気まぐれで無責任なものはない。そんなものに一喜一憂しているようでは決していい結果は生まれないですからね。」他人の評価を気にしている人間は無意識に失敗を避けるようになり弱腰になる。自分が考えている「最高の自分」を発揮することに全力を尽くす。雑念にとらわれず自分の姿を見失わないことだ。彼は国民栄誉賞をまたも辞退した。イチローらしいと思った。

難局を乗りきる
イチローは高校を卒業してドラフト4位でオリックスに入団した。入団して2年間ファーム(2軍)で過ごした。自分のバッティングフォームを貫き通した。みなが寝静まった深夜11時から1時まで毎晩一人で練習した。1999年には彼の打率は2割2分3厘まで下がったこともある。マリナーズに行ってからも2001年オールスター後21打席連続ノーヒットだったこともある。何をやってもうまくいかないこともある。そんな状況をますます悪い方向に向かわせるのは悪い結果に過剰反応してしまうからだ。平常心をもってベストを尽くせていれば事態は好転する。記録更新を目前にしてイチロー選手はデッドボールを2度受けた。しかし、彼は平常心を保ち、そのあとボールにひるむどころかボールに立ち向かいヒットを打った。中日の落合監督によればスランプになったらまず規則正しい生活を心掛け、睡眠、栄養を十分にとるようにすることだという。

独自の哲学を持つ
中日を監督就任1年目にしてセ・リーグ優勝に導いた落合監督も独自の哲学を持っている。「オレ流」は選手補強せず、選手の練習メニューは白紙、コーチを信頼し選手とのコミュニケーションを大切にしているそうだ。うまくいかない時もある。そんな時は選手を決して責めない。「一番落ち込んでいるのは当の選手ですからね。打たれようと思って投げているわけでもないし、エラーしようと思ってエラーしてるわけではないですからね。」
野茂英雄投手も彼独自の「トルネード投法」で大リーグでノーヒットノーランを2度達成し、ミスターKの異名を博した。イチロー選手も、「振り子打法」をもってオリックスで活躍した。当初、多くの人からフォームを変えるように言われるが彼は首を縦に振らなかった。芸術のようなバッティングもさることながらイチローの守備もすばらしい。ライトからのレーザービーム送球は度肝を抜かれる。特大のホームランが場外に消えていく大リーグのベースボールの中でイチローの新しい形の野球が世界に認められた。


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