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余暇の過ごし方

学校での勉強、家での宿題、睡眠時間、食事をする時間、お風呂に入る時間など絶対に必要なもののほかに、なんでも自由になる時間がある。1日24時間からこれらの時間を引いてみると意外と多いことに気づくはずだ。さらに週末の土、日まで計算に入れるとまだまだ自由になりそうな時間はある。その自由な時間をどのように使っているか、自分で再考して欲しい。

もちろん、ストレス発散や気分転換のためになんでも好きなことをするのが精神的にもいいと思う。しかし、何でも好きなことをする中において自分を成長させることや特技を身につけることに少し方向を変えられないだろうか。ゴルフの石川遼選手や野球の松井秀樹選手たちのように、天才だとか一流だと言われる選手は、そのスポーツだけでなくにそれに関連することを3才前後から始めているという。つまり、一つの頂点を目指すためにすべての自由な時間を使っているのだ。

有意義な余暇の過ごし方にビデオ鑑賞がある。一週間のうちでこれはおもしろいと思う番組をチェックしてそれを録画しておく。科学的なもの、歴史、地理(世界遺産)、生物(動物の番組)、語学(英語に限らなくてもいい)料理番組、クイズ番組でもいいと思う。いちいちノートやペンなどいらない。いるのはコーヒーや紅茶、それにケーキやお茶菓子でいい。自分の心と身体を休めるくらいの気持ちで見ればいい。眠くなったらうとうとしてもいい。無理に覚えなくてもいい。おもしろいなと思ったらメモを取るくらいで後からそれについて調べてもいい。それが2,3時間の楽しみの時間になればいい。あまり堅苦しく難しいことばかりだと絶対に長くは続かない。しかし、それらの中に自分の心に響く言葉や映像が必ず見つかるからおもしろい。

もう一つに瞑想がある。絶対に覚えなければならないことをノートとペンを使わずに頭の中で整理し記憶していく手法である。これは余暇と言うより学習のクールダウンと言うべきだろう。英語でも数学でもなんでもいい。自分がついさっき学習した内容を思い浮かべてみる。それがどこまで修復可能なのか頭の中でイメージをする。おそらく初めのうちはあまり修復できないことに落胆するだろう。しかし、その落胆から学習しているオンタイムの時間が変わってくる。思い出せるような工夫をするようになってくる。「これはきっと忘れる」、または「思い出せないな」という予測ができてくる。そうすると何とか思い出せるように予防策を事前に立てられるようになる。

習い事でもいい。趣味として絵画、スポーツ、楽器演奏、映画鑑賞など自分のスキルを向上させることであれば何でもいい。大切なのはテレビや習い事でも受け身にならないことである。ややもすると、それらは時間とともにどんどん過ぎ去っていくし、気がついてみると何も残っていない。積極的な態度で臨んでこそ、何かが残る。積極的な態度は人に頼らず自分ですることだ。お母さんにビデオを撮っておいてもらったり、料理を作ってもらってばかりでは何も覚えられないのと同じだ。

図書館で気に入った本を借りてくるのもいい。できるだけ、いろいろな種類の本を借りてきて手に取りやすい場所に積んでおく。小説ばかりが読書だと思われがちだが、そんなことはない。ある国に興味があればその国のガイドブックでもいい。マンガの描き方でもいい。図書館にはさまざまな分野の本やビデオ、DVD、CDなどがある。それが無料で借りられるのだからこんなありがたいことはない。借りてきた本をすべて隅から隅まで読むこともない。積んでおけばいい。それを冗談だか分からないが「積ん読」と言うのを小さい頃に聞いたことがある。

「積ん読」方式の余暇の過ごし方が教養を深め、人間の幅を広げてくれる。



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貧困率

貧困率が10月20日、長妻昭厚生労働相から発表された。国民の所得の中央値の半分に満たない世帯を「相対的貧困」と定義し、2006年時点で全国の相対的貧困率は15.7%であることが明らかになった。貧困関係の数値は民主党になって初めて提示された。
 日本の相対的貧困率は経済協力開発機構(OECD)加盟30カ国中4番目の高さで、子供の貧困率は14%、高齢者は21%、ひとり親家庭は59%とすべてOECD平均を大きく上回っている。格差は確実に広がっている。
 日本の貧困率が高い理由は所得の再配分機能が他のOECD諸国に比べて弱いということやパートタイム賃金がフルタイム賃金に比べて安いこと、年功序列賃金が主流だった日本では高齢者が高賃金になりやすい一方、若年層の失業率が高く、賃金も安いため、高齢者が増えればふれるほど格差も広がっている。
 相対的貧困率を下げようという世論の機運はあるだろうし、政府も無駄な公共投資を減らすなどの財源確保を試みているが一朝一夕には行くまい。また政府が国民の民意をまとめ貧困でない家庭が積極的に貧困対策に協力させることができるだろうか?理想は高いが現実の壁もかなり高い。宗教心の希薄な日本には鳩山首相の「友愛」はどこまで浸透するだろうか?

 日本人にはまだ自力で階層間流動を生み出す力がある。勉強すればなりたい職業に就くことも可能だ。公教育も多少の限界はあるだろうが、ある程度の学習水準までやる気次第で習得可能だし、図書館やインターネットも利用すればかなり高度な水準まで行ける。まだまだ本人の努力次第で階層間の流動は可能だ。他力本願ではなく自力でまず動くことが大切だし、時代が動いている今こそ、この機を逸してはいけない。回りが暗いときは足下に気をとられずに、数メートル先をしっかり照らして確実に歩みを進めていくべきだろう。
 進むべき方向はどちらか、どこを照らせばいいか正確で俊敏な判断は毎日を惰性で生きている人間には下せない。自分の幅を広げいろいろな人の話を素直に聞くことのできる柔軟性、その中から自分に適した情報を濾し取れる能力、そして努力を続けることのできる忍耐力が絶対不可欠だろう。

 先月、ミャンマーを訪れた。タイ北部の都市、チェンライからメーサイに入ってミャンマーの街に入国した。入国するとすぐに小さな個室で500バーツ(日本円で1400円程)とパスポートを取られ代わりに入国証明書らしきものをよこされ、ちょっと心配したがそんな心配もすぐに、しつこい物売りから体よく断ることに追われ脳裏から薄らいだ。マーケットで売られている品物も明らかに偽造品であるし、そうでないものにしても品質はかなり悪い。軍事政権になってから民衆の経済状況はかなり悪化しているし、サイクロンの被害も重なって貧困の輪が広がっている。学校に行けず畑で一日中労働する子供も多い。タイの小学校へ行ってタイで生活したい希望もあるがタイ語を満足に話せないとそれも難しいという。

日本の貧困率が高いことで、あたかもそれが大きな問題のようであるが、それは国別に見た相対的な数字で、個人レベルにおいてはやはり他人事なのである。貿易赤字だとか貿易黒字、GDP(国内総生産)、円高、日本の税収入が40兆円を下回るだとか言われても直接、個人にはあまり関係ない。関係あるのは1リットルのガソリンの値段であり、月々の電気代であり、銀行の金利などである。
 日本では、輸送機関の発展やインターネットの普及などで、物のグローバリゼイションは確かに進み、各国の物が簡単に手に入るようになった。食品や機械類、音楽や情報などの流動性はかなり広がった。グローバル化の時代に世界が移行しつつある中、各国の貧困率など関係なく、自由に世界で活躍し自分の中の幸福度を尺度にして生きていくことが人間のグローバリゼイションになる。物から人へ視点を変えていかないといけない。



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友愛の架け橋  Bridge Across Understanding

国語ができるために何が必要なのか2009年8月号バウタイムズで既述した。さらに推し進めて考察していきたい。数学など理科系の科目では、おおざっぱに言えば一つの解答を目指し思考を推し進めていく。しかし、国語や英語といった表現力や理解力を求められる文化系等の科目では一つの解答に縛られず、さらに広い視野に立って考察をしていく必要がある。自分のアクションより相手のリアクションに比重を置かなければならない。つまり、相手の立場になって考えることができるかどうかが問われてくる。
ゆとり教育の弊害は学力の低下だけにとどまらない。その副作用として自己中心的な考え方が親と子供に浸透してしまった。モンスターペアレンツは自分の子供の利権BAUを守るために教師にくってかかったり、無理な注文をつけてくる。子供も自分の分をわきまえずに言いたいこと、やりたいことだけを主張するようになった。勉強が嫌いなら何らかの理由をつけて自分の部屋に引きこもって学校に行かない。自分の将来のことを考えるより今のいやなことから逃げられればそれでいいのだ。

ネパールでは15歳以下の子供の半数以上が労働をしていて学校に行けない。女の子でも重さ50キロにも及ぶ砂を担ぎ、砂の採取場と現場を何往復もする。一回10円程度の賃金で働く。学校へは仕事の昼休みを利用して1時間半程勉強する。ある少女は将来デザイナーになりたいと言って足早に仕事場へ帰っていった。
日本人の多くはは西洋的個人主義が定着していないにもかかわらず、うわべだけを真似て、それを取り入れたと勘違いしてしまった。例えば、アメリカ人は他人が自分のことをどう思うかなんてほとんど気にしないし、自分も他人のことにほとんど干渉しない。本当に好き勝手なことを平気でする。もちろん、他人に迷惑をかけないことは大前提としてだが。

日本人の多くは絶えず回りを意識し、他人から見て自分が変じゃないかとか、自分だけが周囲と違っているんじゃないかと気を遣う。つまり、本能的に回りと調和することを意識してしまう。買い物でも「これが今売れています」とか「人気No1」とかの表記を見ると安心してさらに購買意識を煽られる。納豆や心太、バナナなどがダイエットにいいと聞くと一気にスーパーに押し寄せて売り切れ状態になる。簡単にポピュラライズ(popularize-大衆化)されるのではなく、回りとの調和を求めながら個人の独自性を発揮できる日本的個人主義へと粛々と(厳かにひきしまって)歩んでいきたい。

BAUの名前の由来、それはバウハウス(Bauhaus)1919年にグロビウスがドイツのワイマールに建てたデザイン学校で近代建築運動の一つがここから始まり、絵画、彫刻、デザインにも大きな影響を与えたが、33年、ナチスの圧迫により解散させられた学校の再生。そして、BAUハウスのように、古い考え方に固執せず常に斬新なものの考え方をして時代をリードしていく姿勢を持ちたい。
またBAUはB-Bridge A-Across U-Understanding の頭文字でもある。自分のことだけを考えるのではなく、他人のこと、ひいては他国の人や文化、政治、経済情勢、習慣、宗教さまざまなことを理解し、争いごとのない平和な世界を目指していくという大きな目標を掲げたものだ。しかし、その大きな目標を達成するのはまず個人レベルからスタートしなければならない。日本だけでなく世界のいろいろな国の人と友達になり、国籍を超えて理解し合えることが基本で一番大切なことだ。

鳩山首相が国連本部でこれからの日本は世界の架け橋となりうると明言された。2020年までにCO2削減でも先進国にさきがけて25%の削減を約束した。地球温暖化が急速に進みつつある中、自国の利益のことだけを考えるのではなく、世界各国が地球のことをグローバルの視点で考える時が来ている。



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茶の間文化を見直せ~日本再生の幕開け

明治維新から日本は西欧文明を盛んに取り入れ、追い続けてきた。西洋風の建物、西洋の食文化、ファッション、音楽、美術、医学、教育、経済そして思想、ありとあらゆるものが西欧風になっていった。西欧の文化はすばらしいと次第に多くの日本人がそれに盲従するようになり、それが盲信へと変わっていくのにたいした時間はかからなかった。
西欧文化を学ぶことはいいことだ。しかし、それが自分たちの文化にきちんと合うようなな形で受け入れなければいつかどこかで生態拒否反応がでて危険な状態を招きかねない。日本は明治以来140年以上にわたり、中央集権国家を目指し富国強兵政策をとり官僚主導の下で発展してきた。特に太平洋戦争後からはアメリカの背中だけを見て追従し、アメリカだけに従順に耳を傾けてきた。
日本とアメリカの文化の違いや考え方の違いをあまり考えずにアメリカの文化を鵜呑みにしてきた結果、日本は大きなダメージを受けた。経済的にはアメリカ型の大量生産、大型消費をもとに大型ショッピングセンター、巨大ショッピングモールの出現、その陰で市街地の商店街は衰退した。まるで都市、地方の格差、貧富の格差社会の縮図を見るようだ。

2009年8月30日、ほぼ55年にわたって日本の舵取りをしてきた自民党政権が民主党に政権を明け渡した。多くの国民が変化を望んだ。民主党はアメリカとの外交を重要視しながらもアジア外交を重視していくことを表明している。それに対してアメリカ側では懸念しているが日本が米軍基地問題、アメリカとの軍事協力など大きな路線変更を計る契機になる。
本当にアメリカに盲従していていいのだろうか?結局、アメリカは日本以上に格差社会であるし、それが行き着いた結果がリーマンブラザーズに続くビッグスリーの危機的状況である。景気がいいときはいいだろうが、いったん景気が冷え込むと巨大店舗はダメージが大きい。その点小さい個性的なお店は小回りが利く。生き延びることができる。氷河期を迎え巨大な生物が絶滅していったのと似ている。地球温暖化が進み、二酸化炭素排出が大きな問題となりエコが世界的に注目を浴びてきている現在、日本の伝統的な住居、商店街、教育、食事が見直されていることはもちろん、技術革新の面でも省エネでは世界をリードしている。

日本は技術や科学、医学といった分野の導入を急いだあまり、西洋の文化もまるで切り花のように移植してきてしまった。土壌が違うのだからまず土を馴染ませる必要があった。それを文明開化とか欧米化といって嬉々としていた時代が長く続いた。例えば住宅も西洋風になり、キッチン、ダイニング、リビング、それに個人のベッドルームが造られるようになった。
日本ではリビングやダイニングなどをすべて兼ね備えた茶の間というものがあった。そこでは家族がいつもテレビを見たり、話をしたり、各個人が本や新聞を読んだり、子供が宿題をしたりする公共の場でもあってしかも個人の場にもなった。いつも家族の顔が見えて、具合がいいとか悪いとかもすぐ分かるし、どんな勉強をしているかも見えていた。親戚や近所のつきあいもあからさまに子供に伝わるから自然にいろいろなことが茶の間で学べた。テレビも一台であるから当然、親が主導権を握り子供は否が応でも大人の世界を垣間見た。
ところが、その茶の間文化を西洋風の建物が一掃してしまった。個人主義が成熟していない日本人に与えられた個室はまさに百害あって一利なしのホワイトエレファントになってしまった。「個室(子供部屋)は見た目はいいし使い勝手も良さそうだ。なにしろ、西洋風で個人の自由を重んじているからうちの教育方針は正しいんだ。それに自分のことは自分で責任を持ってやれるようになるし子供のためにもなる」そう思って親はかなり高額なお金を払って立派な家を建てる。それこそ、それが機能して子供がかなりの時間をリビングで過ごし、家族といろいろな話をしてから自分の勉強や睡眠のために自分の部屋に行くならまだ頷ける。

ずいぶん前のことになるが、高校生の時アメリカの高校に留学していたとき自分の部屋を与えられた。英語なんてそんなに簡単に話せるわけもなく、家族で食事をとった後は逃げるように自分の部屋に行きたいと思った。しかし、留学生のルールとして食事の後は必ず食器の洗いの手伝い。学校であったことを何でもいいから家族と話し、宿題があるときもなるべくキッチンやダイニングで家族の見えるところでする。自分から家族の仕事を必ず与えてもらい家族の一員に認めてもらえるように最大限に努力せよ。どこかで偶然、日本人と会ったときでも日本語は禁止、すべて英語で話すことが強制された。もちろん、日本の家族へ電話するなんてことは絶対できなかった。それはすべて家族になるための配慮だった。家賃を払って食費を払うならアパートと同じ。残念ながら今の留学生の多くは、せっかくのホームステイもお金を払ってアパート住まいと同じ暮らしをしている。



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国語の力をつけるには~「学問のすすめ」

国語の勉強のしかたがよく分からないという声が多く聞かれる。国語とはまさしく日本語のことで日本人にとっては母語だ。英語やフランス語といった外国語ならともかく母語である日本語が分からないというのは本末転倒のような気がする。

私たちが思考をする場合、日本語を媒介とする。外国語ができてくると思考回路がその言語になる。考え方や物の見方は言語の背景にある文化や習慣によって変わってくるものだからだ。国語が苦手だという生徒が確かに目立って増えている。それは日常の生活に思考や工夫が不足しがちであることの裏返しでもある。思考や工夫しなくても何の不便なく日常が過ぎていく毎日では思考能力が鈍ってくるのは当然なのかもしれない。携帯電話やインターネットを通じて情報が溢れるように押し寄せてくる現状ではゆっくり考えることは多くの人にとって不要になってしまった。

日常からリアルが失われてバーチャルがどんどん増えてきた。最近のゲームは手にゲーム専用の機器を持ち、ゴルフ、卓球、テニスなどさまざまなスポーツができるという。相手が人間とか自然ではなく機械になってしまった。スポーツはもとより、麻雀でも囲碁、将棋でも相手の心理を読んでの駆け引きがある。表情や会話のなかから鋭敏に察知する能力も身についた。

スポーツやゲームでも勝負は負け方を覚えるのに最適な場だ。どんなに負けていても最後までやり抜かなくてはならないし、途中で逃げるわけにはいかない。勝つ方はいいが優勝する以外、必ずどこかで負ける。正々堂々と負けることを強いられる。しかし、バーチャルのゲームでは負けることを学ばないで済む。実際に相手がいるわけではないので悔しい気持ちやそれを乗り越える精神力も育たない。

最近ではもう「キレる」という言葉も新鮮みを失ったが、それはそういう事件が後を絶たないからだ。自分の思い通りに行かないから相手を殺傷したり、さらに信じられないのは誰でもいいからという無差別的な犯行が連続して起きている。これもゲーム脳に大きく影響されているという。

いろいろなことに興味を持ち、面倒がらずに積極的に自分の足で情報を集め、視座を移し、さまざまの角度から思考することが人間を成長させる。それに連動して国語能力も上がる。つまり、国語力とはその人に内在する総合能力だ。少しばかりうまくいかないことがあっても簡単に挫折することなく全体を見渡し、うまく対処していくことが人間の成長とともに必然的に求められてくる。

リアルとバーチャルの歴然とした乖離が格差にも大きな拍車をかけている。貧しい人はバーチャルで済ませればいい。コンサートに行かずにCDを聞けばいい。実際の場所に行かずともテレビやDVD、インターネットで見ればいい。シェフが料理したものを食べなくてインスタント食品を食べて済ませればいい。本当のレジャー、スポーツなどをしなくてもwiiをしていなさいということだ。

労を惜しまずに努力すれば誰しもが自分の未来が拓ける社会を日本は何年もかけて構築してきた。しかし、日本人が物質的に豊かになるにつれて、その恩恵を自然に風化させ、当然の権利のように漫然と受け流してきてしまった。その結果、物質的豊かさの上に成立していた精神的安定も日本経済の不安定さとともにいとも簡単にその脆弱さも露呈させた。
歴史が大きく動こうとしている今こそ、「学問のすすめ」の意味を再考したい。



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遊びの天才~意識から無意識へ

新学期が始まってからあっという間に3ヶ月が経とうとしている。前期中間試験も終え、結果が出てきている。各自、結果を見て満足しただろうか、それとももう一歩だという反省の気持ちを抱いただろうか。各教科それぞれ得意、不得意があるだろうが不得意な科目を攻略しなくては成績の向上は果たせない。得意科目に関しては意識から無意識の作業が自然に行われて楽に学習効果が得られているのである。しかし、不得意科目に関しては意識から無意識の作業が自然に行われていない場合が多く、漠然とした曖昧模糊なイメージしか残らない。できるようなできないような、やってみないと分からないという感想を持ったまま試験に臨むことになり、結果はいつもと同じようなものになる。

大切なことは「何のために何をしているのか?」を意識することである。食べ物でもただ漠然と食べているようでは食のバランスが悪くなって体型も崩れ、健康も損なう危険性がある。タンパク質、脂質、炭水化物、ミネラル、ビタミンとバランスよく摂取することを意識する必要がある。それに慣れてくると自然にバランスのよい食事が取れるようになるだろう。

苦手なところを学習することは初めは少なからず誰にだって抵抗がある。その抵抗値を下げてくれるのが指導力であったり、回りとの競争であったりする。一人で10キロのマラソンをするのは大変きついだろうが、学校でのマラソン大会ならば割となんなく完走できてしまう。試験勉強も一人でやるのは案外きついが、塾でみんなと競争するからかなりの分量がこなせる。しかし、分量がこなせたからといって成績がいいという訳ではない。分量をこなすのはスタートライン。やはり、そこに意識の差がある。

バウでは英語リスニングをかなり時間をかけてやっている。(意識)最初は多くの生徒がリスニングに馴染まずあまりやりたがらない。なぜかというと通常では目から脳への刺激による学習が多く、耳に負荷をかけ、日本語にない微妙な音を聞き分けることがないからだ。最初は「全然聞こえねぇ!」「え、ホントに今そうに言った?」などの驚きとも不満とも言える叫びが聞こえてくる。たいていの場合、ここで挫折してしまう。しかし、英語の特徴である母音の連結、弱音化による子音の欠落、発音の変化などポイントを丁寧に説明しながら、どんどん進めていく。人間とは不思議なもので継続しているうちに聞き分けられてくるのだ。聞き分けられてくると面白くなってくるからリスニングの時間が好きになってくる。(無意識)

集中力とは意識を集めることだ。意識が集まってくると他の箇所が暗くなってさらに一カ所が明るく照らし出される。つまり、時間が経つのも忘れるほど打ち込んでいる状態を作り出せるかが問題だ。好きなことは誰でも集中できる。ゲームなどをしている時は積極的に集中しているのではなくて消極的に集中させられているのだ。今のゲームは機械(コンピュータ)を相手にしていることがほとんどで人間を相手にしていない。個人の遊びが増えた。仲間がたくさんいても一人でゲームをしていたり、友達と旅行に行っている時でも携帯に顔を埋めるようにメールをやりとりしている。そのくせ、ランチはみんなと一緒がいいと考えたり、何かに誘われないと疎外感を感じてしまう。

以前の遊びは年齢の違う近所の子供たちがどこかに集まってはいろいろな遊びをした。そのなかで、体格の違いや性格の違い、年齢の違い、家庭の違い、考え方の違いを感じてきた。子供が集まったところでたいした遊び道具もないし、金もない。でも、なんとか楽しく過ごせるように工夫した。遊びをを考えたり、山や川に出かけて冒険もした。つまらない状態をいかにつまらなくない状態にするかに関して、昔の子供は遊びの天才だったのかもしれない。



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自然から学ぶ~パンガン島から

先月、タイのバンコクから飛行機で約1時間でサムイ島、そしてそこからフェリーで40分ほどのパンガン島を訪れた。そこで友人の従姉妹が経営しているサン・クリフというバンガローに泊まらせて頂いた。港からアップダウンの続く道を30分ほど走ってバンガローに着き、タイ人のご主人を持ついずみさんが待っていてくれた。熱帯地方の植物群に囲まれた静かな落ち着いたバンガローだ。テラスにはハンモックが無造作に掛けられており、青い海、白い砂浜、そして青い空のオーシャンビューが目を釘付けにした。
そこにはテレビもラジオも音楽もない、つまり人工的な音が一切ない自然の音だけの世界だった。風の音、波の音、鳥の鳴き声、風に連動した植物群の奏でる音楽の世界だ。
タイ人の友人たちと一緒に食事を頂いたのだがテーブルがあるのに、それを動かしてテラスの板の間に車座になって食事をする。スプーンもフォークも使わず器用に手を使い料理を分け合って食べる。かなり辛いタイ料理をカオニャイ(餅米)とともに頂く。
郷に入れば郷に従え、がんばってタイ語で輪の中に飛び込む。飛び込んでは、はじき返されるが、次第にそれが弱まってくる。外国語が話せるようになることは、その言語だけの部屋を作ることだ。最初は挨拶、そしてよく使う表現を少しずつ、必要な分だけ増やしていくことだ。多くの人が学習過程で間違えるのは欲をかきすぎて使えないものまで取り込み、にっちもさっちもいかなくなり途中棄権してしまう。

この広い世界の中で、欲をかくという性質を持った生き物は人間だけだろう。必要以上の食べ物を摂取し、拝金主義に傾倒し、より多くの金銭やモノを手に入れることが美徳であると教えられてしまう。教育とはより多くの金を手に入れるための手段になってしまった。宗教も人間の欲を叶え、罪を許してしまう傾向にある。アメリカでは証券会社、クライスラー、GMなどの大企業のCEOは数十億円のボーナスを支給され、オバマ大統領も苦言を呈したほどだ。それらの企業は経営破綻をきたし自分の首を絞める結果になった。

自然に逆らう不自然な作用は必ず自然からの反作用を受ける。都市中心型の経済は地方都市が苦況になることは当然で、数人に金が集まれば大多数が貧困層になり格差がうまれる。人間が地球を燃やせば温暖化になり、南極の氷も溶け出し、眠っていたウイルスが目を覚まし新型インフルエンザとなって猛威を振るう。
教育とは何か? 簡単に「がんばる」とか「努力する」という言葉が飛び交うが本質は「我慢する」ことではないだろうか。教育とは「我慢することを教える」につきると思う。自然に逆らわず、自分だけ、人間だけよければいいという欲を我慢することを教えるのが大人の使命だろう。

現代社会では子供に我慢することを教えていない。それでは心のマイナス成長を助長してしまう。アフリカでは人間が森を伐採して切り開いた道路を「水のない川」と呼んでいる。アスファルトの黒い道とコンクリートのビルとエアコンのヒートで地球を覆い固めてしまえば水の流れる道が塞がれ、水は行き場を失う。無計画に自然を切り崩し、道路を造り、要らない箱物を造り、スポーツ施設やゴルフ場を造りまくって満足しているのは人間だけなんだろうな。地球の他の生物がもしかしたらみなで相談してニンゲンを地球から追い出そうとしているのかもしれない。牛、鳥、豚。ニンゲンの仲間だと思われている犬や猫がウイルスと手を組んでニンゲンに牙をむいたらひとたまりもないだろう。

本当にきれいな海と夕日を背に、パンガン島が美しい島のままでいてくれることを願って帰途についた。



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パンデミック~新型インフルエンザ

新型インフルエンザが世界的な拡大を見せ始めている。世界保険機構WHOは警戒レベルを世界的大流行(パンデミック)の一歩手前のフェーズ5に指定した。毎日何百何千という旅客機が世界中を飛び交う中、感染をどこまで防げるかが緊急課題だ。グローバル化の時代、国際関係が複雑に絡み合い、国と国の距離が縮まった。人間と人間の距離も縮まった。
それはよかれ悪しかれ情報伝達だけでなく不況の波、感染のスピードが急速に速まった。
それなりのスピード感のある対処ができないと取り返しのつかないことにもなりかねない。すなわち、瞬間的で適切な判断力が求められる。

地球が小さくなることは物理的な距離が縮まることを意味し、見知らぬ人が満員電車にすし詰め状態で乗り合わせているのに近い気がする。見知らぬ人が自分の不快距離内に何人もいる状況では目を見ることも話をすることもできず、痴漢にでも間違われたらたまったもんじゃないから、両手を挙げて不自然な格好をしなければならない。素性の知れない人の中で適正な距離が保てないから身の守りようがない。精神のバランスを保つために回りを無視する態度に出るのはむしろ当然のことなのかもしれない。

不自然な状態が続けばやはりどこかに弊害が出てくるのは自然の摂理で、なるべく早く自然な状態に戻そうとする努力が必要だろう。格差社会が進む中、2008年リーマンブラザーズの経営破綻を機に世界的な大不況が始まった。それは、一部の人間がとてつもない巨額の富を手にするという不自然な状況がもたらした必然的な結果なのかもしれない。誰かが独り占めするのを法的に許容するアメリカ型社会ではもたない。経営難に陥っていた米自動車3位のクライスラーが日本の民事再生法にあたる米連邦破産法11条の適用を申請し、経営破綻した。

経済も人間の身体と同じ。お金の流れは血液の流れと同じ。きれいでいい血が毛細血管を流れ、身体の隅々まで行き渡って自然で正常な代謝が行われる。隅々の細胞も十分な酸素を得ることができ、元気でいることができる。そこに人間の身体に有害な物質(強欲の固まりのヘッジファンド)ができると、血液が濁り、毛細血管にきれいな血液が届かなくなり細胞が死んでいく。インターネットにもウィルスが入り込めば正常な機能が失われるし、怪しい情報が入ってくれば正確な判断も狂いが生じる。血の濁りは心の濁り、その濁りのもとは自分さえよければいいという自己中心的なエゴイズム、そのエゴイズムを正当化するための理屈を論理的だとするアメリカのルールをアメリカンスタンダードといって簡単に受け入れてしまった。

「和」を基本とするジャパンスタンダードをアメリカンスタンダードの対立軸としてバランスをとらないと日本はアメリカとともに崩れる。ヨーロッパはユーロを中心として米ドル基軸体制に反旗を翻し、中国は独自にGDPを伸ばしている。それぞれに自己防衛を画策しながら独自のスタンダードを模索している。アメリカ合衆国も新しいリーダーの下、自ら再生の道を見つけようとしてる。日本だけが自民だ、民主だとはっきりとした方向を示せず右往左往している。
花粉症の季節がそろそろ終わりマスクから解放されると思ったら、今度は新型インフルエンザ。なかなかマスクから解放されそうにない。



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スタンド アップ & スピーク アップ

日本が見事とというか苦しみながらもWBCで優勝した。どの国も強豪なのだろうが、以前は野球と言えば米国、キューバで日本は手も足も出ないような感じがした。それが日本人プレイヤーがメジャーリーグで活躍し始めるともちろん、レベルアップも図れるのだろうが意識が違ってくるのではないだろうか。今回は韓国というライバルが日本のレベルを支え、お互いの相乗効果で1位、2位を勝ち得たのだろう。サッカーでも野球でもどんな競技でもスポーツは国民の意識を高め、民意を高揚させる。みながスタンドから時には立ち上がり、旗を振り大きな声で声援を送る姿が映し出される。

最近は小中学校や高校で携帯の使用を禁止、または抑制する方向で検討されている。それは学生の間での言語の簡略化、記号化が進み、表現力の低下が顕著だからである。表現力が豊かで、自分の意見があって、学力にも悪影響がなく、有効に携帯でのネット利用やメールが利用できるのであれば何の問題もないのだろうが、ブログで書き込みというか、ネット上の落書きもしくは他人の中傷が横行しているようだ。それが陰険で悪質な反民主主義的な言動の暴力になっている。言いたいことや意見があれば堂々と主張として述べるべきだし、それができなければ国際的な討論や会議、プレゼンテーションでは通用しない。

最近では、何か問題があると原因を直接的なモノに短絡的、早急的な解決を図ろうとする傾向がある。飲酒運転で大きな事故があると規制を厳しくして、飲酒することが悪の根源であるかのようなとらわれ方をする報道がなされたり、そういう動きになりやすい。政治でも、経済でも何かあるとすぐに責任問題だとか説明責任であるとか、謝罪だとか国民の前に分かりやすいかたちで解決すればいいとする傾向がある。怖いのは何人に聞いたアンケート調査の結果というものだ。そんなのマスコミでいかようにも操作することができるし、それによって大衆の意見も誘導してしまいかねない。「そうか、みんなはそうに思っているのね。それはそうだわ。」それにテレビのコメンテーターがしたり顔でアンケート結果について取って付けたような解説をすればもうプロパガンダの餌食になってしまう。
日曜午前に放送されているT氏が司会をする民法番組も完全にT氏の意向に合って仕切られていることが多く、見ていて不愉快になる。他局の番組でもM氏やお笑いタレントを多く起用しバラエティーなのか報道なのかごちゃごちゃにしている感が多い。どこの局でもいいから、そして司会は日本人でない方がいいかもしれないが客観的で冷静な判断力を備え、なおかつ熱く討論のできる報道番組が待ち望まれる。

自分の意見や考えを言う表現力の低下は、畢竟、相手の意見や考えを理解する能力の低下に繋がる。だから、相手が自分に分かりやすく説明してくれることを望んだり、目の前で分かりやすく謝れば簡単に納得してしまう人が多くなる。複雑なことを単純化して把握するということは大局的な見地からすれば有効だろうが、穿った物の見方をすれば矮小的な部分で抜け道を作られることになりる。そうして官僚主導主義からは絶対に抜け出すことができない。つまり、精神的に騙されやすい体質を作られているのだ。

スポーツや学術研究、芸術、芸能の分野では各自が顕著な働きをして国際的に高い評価を得ているが、それは世界に向けて威風堂々と自己の才能を表現し、考えを発表し、自分の存在をアピールした結果である。それが国家のあり方を左右する政治については日本人は概して驚くほどおとなしい。「お上には逆らえませんから」の精神ではいつまでたっても日本の将来を危ういままだろうし、またアジアをリードしていく立場からも信頼を失う大きな要因になるだろう。

自分の意見をしっかり持って、立ち上がって意見を述べ、大きな声で発言する。それが民主主義の基本思想であり、近代国家を支えている基本理念である。



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羞恥心?

「羞恥心」という歌手のグループが人気を博しているという。「羞恥心」がグループ名だったということも驚いたが、それが何の抵抗もなく大勢の人に受け入れられてNHKの紅白歌合戦に出場したと聞いた。よく言えば日本の芸能文化の幅が広がった、批判的に言えばレベルが低くなったと言うところだろうが、それが現実なのだから率直に見つめるしかない。お笑い芸と歌謡芸能とエンターテインメントが混在して何が何だか実態が掴めにくくなってきているのは確かだろう。特にお笑い芸人の進出は突出していて、おそらく彼らはそこそこのギャラで番組をおもしろおかしくしてくれるだろうという番組プロでユーサーの思惑で使われているのだろうが、面白いと思ったことがない。昨今の経済事情で番組制作費が削られて厳しいのは分かるがなんとか工夫して知的好奇心のくすぐられる番組を作ってもらいたい。今に至ってはNHKでさえも民放に負けず劣らず低俗な番組を放送し始めた感がある。そんなことでは視聴拒否して受信料を払わない人も出てくるのではないだろうか。

先日、機内でたまたま「おくりびと」を見た。日本映画はあまり見たことがないのだが見ていてストーリーのテンポもよく、チェロの調べに乗って画像が美しく流れ、疲れずに見ることができた。帰ってきて知っている人たちにそのことを話したら本を買って読んでくれたり実際に見てくれたりしてよかったという感想を聞いた。それからアカデミー賞にノミネートされ、続いてアカデミー外国部門賞を受賞した。いい作品は外国の人から見てもすばらしい評価を得るのだなあと実感した。日本の映画文化も世界に向けて胸を張ることができて本当によかったと思う。ただ、監督の受賞会見がちょっと世間を意識しすぎていていただけなかったがまあ、初めての受賞だからしょうがない。中途半端な英語なら日本語で朴訥に話してもよかった。

世界に通用する芸能、世界に発信できる文化、世界が認める芸術を探求して深めていくことが今の日本に求められているし、応えていかなければいけない。はたして、歌手でもタレントでも芸人でも真の能力を持ち、世界の舞台で堂々と実力を発揮できる人が何人いるだろうか。日本は「恥の文化」で国民が中流以上の実力を身につけてきた。「それくらい知らないと恥ずかしいよ」と言ったり言われたりしながら日本人は自分たちの教養レベルを保ってきた。それが詰め込み教育だとか個性を失わせると非難されてしまった。そして「恥の文化」捨て去ってしまった。もちろん、時代のニーズに応じて対応しなければならないがあくまでも対応であって切り捨てではいけない。星霜を重ねて培ってきた文化を切り花のようにチョンと簡単に切ってしまうのは軽薄なことだ。

いつも同じことをやることに安心感を覚え、何か新しいことに挑戦する気持ちも面倒で次第に失せてくると、脳を使っているようだが実際は脳が使えていない状態になっている。
携帯やパソコンの過度の使用も同じで脳の活動を鈍化させている。時代が進んでさぞかし脳も積極的に使われているかというと意外とそうでもなく、実は少し不自由していて自分の努力を要するほうがいい結果が得られることが多い。
高校時代、テレビの英語同時放送がない時、ラジオで「外科医ギャノン」の放送をしていた。土曜日のテレビ東京で午後1時くらいから同じ番組を日本語吹き替え版で放送していた。あらかじめ録音しておいた音の悪いカセットテープを持ってテレビを消音にして、カセットと同時に番組を見た。英語を聞くのに飢えていた時代があった。当時はカセットテープも結構な値段がしてなかなか手が出せずに学校や図書館のカセットを借りては聞いた。今日では、CDやDVD、ALTなど英語の教材が山ほどあるのにほとんどの人がその恩恵を感じていない。

真剣に取り組む姿勢や深く考えて反省する習慣は、羞恥心の活躍とともに隅の方に追いやられて、肩身の狭い思いをしている。



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マスメディア(テレビ)の見方

かつてなかったような陰惨な事件やテレビ番組の低俗化を目の当たりにして日本がどこか方向性を失った感がする。多くの若者たちが芸能人や芸人、スポーツ選手にあこがれ地味な努力を嫌うようになってしまった。成功している多くのそういった人たちは相当な地味な努力をしてきたことを不幸にして若者たちは知り得ない。

多くの人を思考停止状態に導いてきたのはマスメディア、特にテレビでスポーツ評論家やファッションに詳しい人、芸能界に詳しい人、さらにはお笑いタレントにコメンテーターを務めさせ、まるでそのことの専門家のように、専門家でないから軽口が言えるのだろうが「ズバッと」とか「スッキリ」とか簡単に結論を決めつけてしまう。手短で、簡単、そして分かりやすいこと、面白けれもっといい。だから機転の利く小説家や漫画家、タレント、お笑い芸人がコメンテーターとして引っ張り出される。長くて、専門的でつまらなければ視聴者はチャンネルを変えてしまう。そうするとスポンサーが逃げてしまう。テレビ局は数字がほしいから、簡単に見て分かりやすい、麻生vs小沢という対決もの、芸能ネタ、スポーツ、おいしい店、大食いネタ、バラエティーが多く盛り込まれる。

さらに気になるのは街の声といって特定の人のコメントを簡単に公共の電波に流してしまう。そう思わない人もいるはずなのにテレビを見た多くの人は「街の声」に少なからず影響されてしまうだろう。大衆が簡単に感覚的な判断をするようになりテレビの感染によって扇動され日本全体がポピュリズムから大衆のファシズムに移行している感が強い。

小泉元首相のすごいところは日本人の二分割思考法の傾向とワンフレーズを巧みに使いマスメディア自体を彼が操作したことだ。「白か黒か今ここではっきり決めなくてはならない」「構造改革なくして発展なし」「痛みに耐える」新聞の見出しになる標語を並べ国民の圧倒的な支持を得た。民営化に反対する人たちを敵に見立て対立の構図を分かりやすくして国民をワイドショーをみる感覚で選挙に足を運ばせた。それに比べると彼に続いた阿部首相、福田首相は小泉首相の言ったことを実践に移さねばならず四苦八苦した。言った本人はこれも嗅覚が利いて小泉チルドレンを置き去りに政界を早々と引退してしまった。実に見事な離れ業だ。これで誰も彼のことを後から非難できない。

後に続いた阿部氏が首相に就任したての頃はマスメディアはまるで彼が芸能人のようにもてはやした。しかし、大臣の人選ミスそして野党との駆け引き、小泉元首相の残務整理が少しでもブレーキになると今度は一斉に猛攻撃に一転する。福田元首相は回りくどい言い方をいするものだからはっきりしないとかズバッとしたものの言い方ができないと言われ、もともと首相の器ではなかったとこき下ろされ何もしてないと判断されてしまう。

今度首相になった麻生首相は多少アキバの人たちやマンガを武器にマスメディアを操作しようとしているが小泉氏ほど上手ではないから結果が気になるところだ。マスメディアは視聴率につながる標的を定めると徹底的に追いつめる。政界では鈴木宗男、田中真紀子氏、企業では数え上げればきりがないが三菱自動車、雪印、不二家、吉兆、中国餃子、事故米、エスカレーターや回転式ドア、エレベーターの事故、公園の遊具での事故、学生が不幸にして自殺すれば学校の責任、とにかく大臣、社長、専務、校長みなが一方的に謝罪、謝罪の毎日である。
マスメディアは世の中の諸悪の根源、それは多くの場合正義の名の下の弱いものいじめであったり視聴率のための標的だが、それを見つけ出し徹底的にたたく。それらを毎日映像で何度も見せられればそれが当たり前になって視聴者はブレーンウォッシュ(洗脳)されてしまう。マスメディアによる脳の退化現象から子供たちを守らないといけない。そのためには大人が「テレビの言ってることはホントかな?」いつも冷静で批判的に見なければならない。
ものごとはいろいろな角度から光を当てれば違った姿が見えてくる。現在はさまざまな大量の情報がある中で思考が鈍化し世の中のできごとを一方的に白か黒か決めつけて、黒を徹底的に攻めようとする。こうした二分割的発想はとても幼稚で危険な現象だ。日本が全体的に浮かれ過ぎで視野が狭くなり発想も短期的で今さえよければいいというダダイスム傾向に向かっている。ばれなければ何でもあり。儲かればいい。視聴率が上がればいい。だから偽装、詐欺、粉飾、やらせに関することばりが昨今のニュースを飾り立てている。



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アイディアの時代

アメリカ合衆国の大統領にバラク・オバマ氏が就任した。アメリカで黒人の大統領が誕生するとはやはり驚きでもあるしアメリカのダイナミズムがそれを可能にしたのだろう。もしくはそのくらいの離れ業がないとアメリカ経済は立ちゆかないのかもしれない。彼がどういうアイディアをもってアメリカを再構築ではなく新築していくのか全世界が期待している。

日本はどうだと言えば麻生首相に寄せた期待は完全に不完全燃焼で日本経済が鈍化している。あれだけの議員先生がいて何かいいアイディアがないものか。いろいろなしがらみで自分の意見やアイディアが言えないのか、いつの間にか枯渇してしまったのか。
人間は追いつめられると自分で考えるものだ。いいアイディアが浮かぶ。映画アポロ13で生死の危機にさらされた時、ありとあらゆる物を駆使し無事に生還する。外国で暮らせばそこの言語が話せるようになるのはその言語にふれる時間が長くなるだけでなく、やはり必要に迫られ、ある意味で追いつめられているからだ。

日本は経済のバブルを経験し、物質的にはかなり恵まれた環境に置かれてきた。そこに精神が取り残されてきたのかもしれない。日本が経済的に好環境に位置できたのは日本独特の教育体制であり会社組織だった。勿論、時代とともに敏感に変化し呼応していくことは必要だがそんなことは日本の十八番だ。それを個性の時代だとか生きる力だとか、能力主義、結果主義だとか体のいい言葉に紛れて日本のいいところを切り捨ててしまった。

日本はチームプレイの上手な国だと思う。それぞれの技術を適材適所に生かしバランスのとれた仕事をしてきた。それが「ゆとり教育」「能力主義」で実力と配置のミスマッチが始まった。

何でも好きなことをしていいと言われ、その裏には能力主義、結果主義、自己責任という落とし穴が待っている。学校で切磋琢磨しながら自分の能力を知り、ポジションを知ることが教育でそれが生きる力につながる。好きなことをやっていいと言われ、それができないとなると挫折を感じすぐにくじけてしまうひ弱さだけが目立ってきた。

好きなことをやってそれがうまくいくことなんてほとんどあり得ない。そのことを知るべきで、そこから試行錯誤しながら自分の能力を測り、自分の進むべき道を見つけ、追いつめられた自分なりのアイディアを身につけていった。今の時代、ちょっと追いつめられると親が救いの手を差し出して逃げ道を用意してしまう。一昔前は「先生、うちの子が悪ぃことしたら遠慮しねえで拳固くれてくだせーね」なんて挨拶代わりに父兄と教師が言葉を交わした。お互いの信頼感があった。ところが今は父兄と教師との信頼感が絶対的に薄れ、今や皆無に等しくなった。子供にとって怖いけれど信頼の置ける存在が消滅した。

かつて親が尊敬の念を抱いていた祖父母も核家族化が進む中で、たまにいき会うただのやさしい老人になってしまった。子供にとって本当に最後の砦であった父親の威厳も相当薄れてしまった今、子供の信頼すべきモノは人間ではなくパソコンや携帯の中のバーチャルの世界に迷い込んでしまった。子供たちが自信と本来あるべき価値観を取り戻すにはまず親または子供に近い存在が規範を示す以外にはない。



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自然から学べること

先日、イギリスBBC制作の「北極のナヌー」という動物ドキュメンタリー映画を見た。地球温暖化が進む中、北極地方を取り巻く自然環境も激変し、生態系にも影響を与え始めている。シロクマのナヌーとごまアザラシのシーラを中心にさまざまな角度から彼らの生活や表情を実に見事にカメラに納めている。自然界で生きていくために、命がけで一日一日を生き抜いていく彼らの生命力、しかし、自分の力ではどうにもできない自然の法則、そういったすべてを受け入れながら親子の愛情、仲間との協力、子どもの自立、生きていくための決断が寸分の隙をを与えずに映像に映し出されている。瞬間の判断ミスが自らの死を招く。食べ物を取れずに、当然、子どもたちも食べ物を与えられずに食べ物を求めて歩き続ける日々が何ヶ月も続く。
「生きる力」は学校から教えられて身につくものではない。そもそも、今の日本の社会で「生きる力」を持ち合わせている教師がどのくらいいるのだろう。動物園でエサの取り方を教えるのと同じ、所詮無理な話。それを何を勘違いしたか、自分には「生きる力」があると勘違いして正社員にならず、非正規社員を選択したものの多くが自分の選択ミスを棚に上げて会社や社会のせいにしてる。給料が安いだろうが、待遇が悪いだろうが自分の能力に合わせて職業選択をしなければならないし、それを教えるのが家庭や学校だろう。何でも好きなことをやらせ、そしてほめて育てる教育は「生きる力」を奪っている場合が多い。人は失敗の中からしか学ぶことができない。
食べるものには困らず、寒さに震えて凍え死ぬわけでもなく、生活保護も受けられる状況においては日本はまだかなりましだ。ホームレスの生活が大変厳しく、大変だとしばしばマスメディアで取り上げられるが日本のホームレスの生活はおそらく世界一恵まれているだろう。派遣社員の解雇は社会問題のような扱いを受けるが、それは解雇が多量であり、短期間で行われているからで、レイオフは普段から日常茶飯事に行われているのだ。日本がアメリカ型のビジネスモデルである新自由主義、市場原理主義を選択したのだからしかたないことなのだ。

急激な信用収縮は実体経済にも打撃を与え100年に一度の危機と言われるほどの世界同時不況の様相を深めつつある。実体経済の伴わない経済成長はどこかでバブル現象を生み出してそれに乗って株価上昇が表層的に演じられているにすぎない。ゆるんだ雪の上にどんどん雪を積もらせていくのと同じで限界がくれば当然、雪崩が起きる。
アメリカの金融業界から端を発し、日本でも自動車産業を始め、輸出関連企業の急速な業績悪化を引き金に雇用、企業倒産、消費動向など、さまざまな経済指標が日々、悪化している。その余波は後に中小企業や零細企業には何十倍、何百倍にもなって襲いかかってくることが予想される。穿った見方をすれば「生きる力」はこうした現実を突きつけられて初めて身につくものかもしれない。
高校入試も大学入試も入社試験も変わりつつある。自分で問題を分析し、解法の手順を考えて解答を導き出す問題が目立ってきた。与えられた問題を記憶を頼りに解答していく従来型の問題の割合が減った。企業でも社会全体が不況の中、稼いでくれる人材を求めてくるのは当然のことだ。
近い将来、英語の授業は英語で行われるという。それはそれで一つの考えだろうがほとんど効果がない。考えようでは百害あって一利なし。英語が余計分からなくなる。今の世の中、テレビでもインターネットでも、DVDでも、さまざまな英語教材でもネイティブが英語を話している。英語を聞こうと思えば誰でも簡単に聞くことができる。わざわざ学校の教師の得体の知れない英語を聞かされる必要があるのだろうか。英語は高校からは選択科目にしてもいい。人は自分の得意なものをする方がいい。
時代はもっと先を行っている。国際的感覚を身につけ、世界に出ようと思う日本人にとっては、英語は当たり前、そのほかに中国語、フランス語、ドイツ語、アラビア語など第二外国語を高校から選択肢の中に入れるべきだ。
波乱の2009年が始まった。



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努力の本質

自分を追い込む力が我慢だと思う。勉強でも習い事でもスポーツでも才能と自分を追い込んだ分だけの努力(我慢)が相互作用しあって結果として表れてくる。たいした努力もしないでも人並み以上の結果が出せたりするのは、おそらくあり得ない。そういう場合は本人が取り組んでいることが本当に好きでかつ才能もあり、いかなる努力も本人は苦労としては捉えていない場合である。好きなことをやっているのだから苦にならないのは当たり前だ。好きなことだけをやっているなら努力という概念は存在し得ず、好きなことを犠牲にして他のことに専念しなければならないことが我慢するとか努力するということだ。

やりたくないことや好きでないことはやらなくてもいいという思想がいつの間にか日本中に蔓延した。さらにその思想がやりたいことや好きなことはなんでもやっていいという発想にまで行き着いてしまった。学校に行きたくなければさまざまな理由もあるだろうが不登校という一番単純な解決策を選択してしまう。嫌いな物があれば食べなくてもいいから好き嫌いが認められ、それが個性としてまかり通ってしまう。授業中に大きな声で話すのも欠伸をするのも鼻をかむのもトイレに行くのも水を飲みに行くのも携帯でメールするのもそれが本人のやりたいことなのだから何の悪気もなく何の躊躇もなく行動に移してしまう。一部の生徒によってなされるこういう行為は他の多くの生徒にとって確実に悪影響を及ぼす。そしてこれを制するだけの権限が教師には与えられていない。これが学校で起こっている現状の一部であることを認めざるを得ない。

義務教育の下になされる教育は子供に勉強を教えるだけでなく同じ程度の道徳教育や躾が施されるべきである。子供は教育を受ける権利があるということはそういうことだ。勉強を教える大前提としての基礎は道徳教育や躾の部分が大きい。しかし、結果主義とゆとり教育が主流となり義務教育においても道徳教育と躾の部分がお座なりにされてしまった。本当は道徳教育、躾が一番生徒に気を遣わなければならない部分で教師の神髄が問われる資質である。

勉強でもスポーツでもほとんどの人がプラトー(plateau):高原の意。技能の学習過程で一時的に進歩が足踏みする状態:を迎える。なぜなら自らの精神のバランスを保つために自分の努力の分量を計ってしまうようになる。つまり、人間の自己防衛本能に従って過度のストレスを避けるためだ。成績を上げるにはここからが最大の問題となる。ストレスを感じずにまたは最小限に抑えて努力の質を上げなければならない。しかし、そのためにはある程度の忍耐力が要求される。その忍耐力は小さいときにしか育てられない。幼いときの枝は柔軟でいかようなる風雨にも耐えられるが、いったん成熟してしまった枝は簡単に折れる。

プラトーからさらに止揚していくためには回りとの相乗効果で苦しい時期を乗り切ることである。マラソンで大勢が走っていたり、また多くの声援が沿道に飛び交うため完走できてしまうのである。すばらしいライバルに恵まれることも才能を伸ばす要因になる。

バウタイムズ08年11月号にも記載したが、心の内にもう一人の理想とするイメージが存在しなくてはならない。そのイメージに近づいたらまた新しい理想のイメージができあがりそのイメージに向かう。実際に理想とするイメージを持てるかどうかが人間としての存在理由としてあるらしい。現在の自分では満足せずにさらなる欲求によって突き動かされる。他人によって楽しませてもらうのではなく、自分が楽しむことによって回りの人たちにも楽しんでもらえる。その精神が時代をリードしていく原動力となる。



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ビジョンを持とう~序破急

米国のリーマンブラザースの経営破綻を契機に世界的な金融恐慌が始まった。実質経済成長ではなく金融経済の株価操作に頼りすぎた結果のバブル崩壊だ。株価が上がり株主が儲かればいいという株価至上主義では企業のコンセプトがぐらつき結果主義、利益追求主義に走らざるを得なくなる。会社を支える従業員は派遣社員が多くなり、設備投資は控えるようになり、目先の利益を取れるだけとれば当然、粉飾、偽装、謝罪のスパイラルが始まる。少数の者だけに利益を集中させるのであればほかの大勢が犠牲になる。それが行き詰まればそのシステムそのものが崩れ始める。格差を肯定したと思ったら今度は格差を是正するという矛盾も生まれる。

今度の不況はおそらく厳しいだろう。不況の嵐に吹き飛ばされないように企業は巨大化することが最大の防衛策だと信じて吸収合併している。しかし、それでも吹き飛ばされると思うと今度は飛ばされてもいいものから切り捨て始める。沈没しかかって必死にもがいている大型客船のようでもある。飛ばされないようにするためには余計なモノは捨てて身を軽くし小さくなることだ。小さく儚い自分を認めることから人間は謙虚さを身につけ生き方を見つけようとする。また身近な人の「死」を通して「生きる」ことを教えられる。人間がこの地上で燃やした夢も理想も死によってあとかたもなく消え去る。人間の一生は無限の宇宙に比べれば星の瞬きにもすぎないことを思い知らされる。

雅楽や能楽などで全体を構成する調子を表す語に「序破急」(じょはきゅう)という言葉がある。「序」は物事の始まりの部分,「破」は細かな変化を含むゆっくりした展開部、「急」は動きの速い終結部でクライマックス部でもある。、「破」の経験がなく、つまり「破」の部分が欠如していて「序」の連続だけで人生を歩んでいる人が多くなったせいで子供じみた大人が目立つ。「破」の部分がない人はまさしく破滅していってしまう。

「破」を受け入れて、経験し自分自身が変わっていく。身近な人の死であったり、旅であったり、個人のコンプレックスであったり挫折であったりする。子供からそういった「破」を奪って自分が子供を守ってあげていると盲信している親も多くなった。

自分の理想とするもう一人の自分を想定し自己実現をしていく姿勢が生きている意味につながる。ユングは人間の心全体の中心を仮定した。それはもう一人の自分を超えた真の自分が存在する。そして意識と無意識を統合する媒介として自己という概念が存在する。つまり人間の心の奥深くにもっと高い可能性を持った「自己」が存在し、それが闇の中を照らす一条の光であり生きる希望であると説いている。

この混乱する世の中でアメリカ合衆国で初めての黒人の大統領が誕生した。230年以上も続いた白人指導の政治にピリオドが打たれた。アメリカ人も既成概念を打破しchange(変革)を求めた結果だろう。アメリカで始まった金融危機が世界にとっての序破急の「破」になるのか破滅の「破」になるのか、バラク・オバマ氏に重責がのしかかる。

アメリカが変わろうとしている今、日本もアメリカ依存型の政治、経済から脱却し、個々がしっかりとビジョンを持ち、それぞれの環境に応じて自己実現を目指して行くところに日本の将来に一条の光が見えてくるだろう。



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迷い

日本の文化は自然を大切にし自然と調和しながら育まれてきた。山の神、川の神、道の神様々の神が日本を見つめ守っていてくれた。先輩や年配の人に教えを請い、彼らに敬意を払って日本独特の縦社会のバランスが保たれてきたと思う。自分が学校でも家庭でも社会でもどこにいるか分かりやすいし、何をすればいいかも迷うことが少なかった。その日本文化の根底思想にあったのが「恥の文化」で縦社会の繋がりからスタートした不平等を時間とともに見事に横社会へと再構築していった。「お陰様で」と言いながら周りの人たちと歩調を合わせ争いをできるだけ避け、ほとんどの日本人が自然な流れの中で裕福な中流家庭へ移行していくことが可能だった。

西洋文化が入ってきてからも日本は上手にそれを取り入れてきた。異文化を吸収する能力は日本人はすばらしい能力を持っている。それが近年になり西洋の一神教を軸とする精神文化と経済戦略が日本に流れ込んできた。すべてが平等からスタートし、自由を与えられ好きなことに挑戦していく西洋の横社会が日本の縦社会を揺るがした。平等からスタートするが時間の経過とともに差がつき不平等になっていく。マラソンのように一位二位三位と順序がつくことが当然であることが前提の平等である。将来的には必ず格差社会が待ち受けているのが分かっているのだから西洋社会の競争は日本の競争とは比べものにならないくらい熾烈で激しいと言われているのも理解できる。西洋社会で挫折したとしても彼らには神がついているので精神的には神を持たない多くの日本人ほどはダメージを受けにくい。

そういう変動期の日本の中で多くの日本人に「迷い」が生まれるのは当然かもしれないと思う。社会の中の大きなブレが子供だけでなく大人も迷わす結果となり、かつては見られなかったような事件が多発しているのだと思う。一二年前に起きたオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件もそのブレの予兆だったのかもしれない。

「四十にして惑わず」という孔子の言葉も今は通用しなくなり「迷い」が若者だけのモラトリアムではなくなった。迷ったら抜け出せない迷宮に入り込んでしまう恐怖さえ感じる。しかし、「迷うこと」によって自分がどこにいるかさらにはっきり分かるようになるし、どっちの方向に向かえばいいか決断できる。迷った果てに自分で出した結論がなければきっと後悔するだろうし、失敗したことを他人のせいにしてしまうかもしれない。

「私は何をすればいいんだろう?」「将来何がしたいんだろう?」いろいろな選択肢が今、与えられているから迷い悩める自分がいる。将来のことで迷えることは私は幸福だと思います。世界中の子供たちが私と同じように勉強ができる環境に置かれていなかったり、自由も平等も与えられているとは限らないからです。

今の私は将来の明確なビジョンはありません。しかし、今私がするべきことは日本だけでなく世界の歴史を学ぶこと、世界の地理を学ぶこと、世界の文化を理解することだと思います。歴史を学ぶことで時間的に、地理を学ぶことで空間的に、文化を理解することで精神的に成長できるからです。大学に行き、チャンスがあれば自分の目で学んだ世界を見て視野を広げ、自分の足、口、手を使い頭で考えていきたいと思う。

否応なく世界が変わろうとしていく中で私は迷いながらも自分を成長させていく努力を続けていくことが自分の迷いから不安を取り去ることであり、迷いから自信へとつなげていけるような気がします。



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反抗期~挫折

73年の歴史で初めて、日本語が母語でない外国人が芥川賞を受賞した。中国人女性の楊逸(ヤンイー)さんは22才で来日して日本語を学び始めた。三作目となる「時が滲む朝」は民主化運動で挫折した青年が天安門事件後に日本に移住し、悩みつつ生きる姿を描いている。

言葉は難しい。国や民族の文化、風習を理解し、習慣に馴染み、その国民に受け入れてもらわねばならない。それは一朝一夕にはできることではないし、まして小説を書いて日本の最高峰といわれる賞まで受賞するとは並大抵の努力ではなしえなかったろう。

文章を書くことは「泳げないのに泳ごうとして、体が浮くように感じる楽しみがある」と語り、日本の若者についてどう思うかと問われ「挫折を知らない」とつぶやいた。多くの日本の子どもは幼いときから甘やかされ、褒められて育てられている日本の教育現状を喝破しているようだ。

最近、子どもの反抗期の中味が変わってきたように感じる。従来の反抗期は、親の言うことや教師のステレオタイプの発言に疑問を感じ、ちょっと自分の考え方と違うんじゃないかと思い始め「個」としての第一歩を歩み始めたものだ。「個」として自己主張をするからにはそこには当然、自己責任がついてくる。親の意見を聞かずに自分の考えを押し通していくわけだから、うまくいかなくても親を恨むわけにはいかない。経験の少ない若者にとってうまくいくことの方が少ない。失敗が繰り返される。失敗の中から第三者の意見を聞くゆとりがでて、自分の感性に鋭敏さが加わり始める。失敗(挫折)からいろいろなことを学び成功につなげる。自己責任とはそういうことだ。青年期はそういう反抗期を経て自己を確立していくために必要な通過儀礼でもあった。

ところが最近、子どもから青年期にかけて反抗期らしいものが見受けられなくなった。子どもには成長に伴い、当然自我が生まれてくる。その自我を通すために無意識に親より立場を上にして自分の欲求をぶつけてくる。それが「すねる」という状態だ。親は自分の言うことを聞かないのが反抗期だと思いこんでしまいがちだが、それは親から自立して自己を確立する種類のものか、またはただ親に自分の欲求を満たさせたいだけの「すねている」ことなのか見きわめないと将来大きな問題が生まれる。自分の言うことを聞いてくれないからといってバスジャックをしてみたり他人に危害を加えたり、親本人にさえ牙をむけてくることになる。

親の過保護と子どもの甘えいう癒着がお互いの「個」の存在を不完全にしてしまった。親は子離れできずに、子どもは親離れできずにいつまでももたれかかりの関係が続いてしまう。さらにテレビは当然ながら、携帯、パソコンの普及によって他人に無関心になった。人の眼を見て直接、話す聞くことの必要がなくなって人の心が分かりにくくなった。今、日本人にとって必要なのは人と人との直接的関わり合いなのかもしれない。

「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ」芥川龍之介は言っている。



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ゆとり教育最大の盲点~人間疎外・秋葉原事件

「好きなことをやりなさい」「人間はみんな違って当たり前、それが個性になるんだから」「なるべく子供は褒めて育ていいところを伸ばしましょう」そういうかけ声でゆとり教育は10年以上猛進し続けた。お題目は立派で理想的だ。しかし、現実的かどうかを考えてみるべきだった。好きなことをする=自由は果たして最初から誰にでも与えられるものだろうか。自由は不自由を知るところから始まり、現実の矛盾の中でもがき、葛藤し闘ってやっと手に入れられる希有なものだ。

教育とはどれだけの努力をしなければ自由が手に入らないものかを教え導くことが本当の意味だと思う。社会に出て仕事でも成功し自由を手にできる人間は少ない。アメリカの推し進める格差社会に拍車がかかり中産階級と位置づけられてきた層にも大きな変化の波が押し寄せているのが現状だ。日本の社会全体がバブル期と相応してゆとり路線を走ってしまった。その結果がすべての業界で見られる偽装であり粉飾である。官庁では自分たちの利権を固守するための自己本位の無計画な無駄遣い。その結果が日本の負債が800兆円を超えてしまった。

最近ではクローンだとか遺伝子組み換えだとか偽装、偽造などの不良の複製品が出回っている。自分がオリジナル、誰の真似でもなく、誰に似ている出もなく、自分の個性を持っているかどうかは常にオリジナルに触れる機会を持とうとする姿勢に反映する。「みんなが持っているから自分も…」だとか「周りの人がこう思うだろうから自分は…」と考え始めると個性の喪失が始まってしまう。音楽を聴くのにもまず本物を聴きたい。その感動を思い起こすためにCDを聴くのならいいがなるべくなら感動をする機会を多くしたい。感動するためにはそれに見合った分の労力が必要とされる。目の前で、息づかいを聴き、そして得ることのできる貴重な体験となる。

日々の生活の中で感動しているだろうか?毎日がおもしろくなく飽き飽きして退屈になってはいないだろうか?もし、感動が少ないなら、または最近になってないならまずオリジナルに触れるべきだ。
今年になって自分の家の狭い土地に小さな畑を作った。なす、キュウリ、トマト、にんじん、シシトウなど植えてみた。知人から分けてもらった土が良かったおかげか素人が植えても今のところ順調に育っている。最初は小さな苗だったものが日々成長して大きくなっていく。地球の大地ってすごい力を持っているなあと驚き感動した。地球が生きているんだなあと感心した。地球が生きているからその上に生きているものも生きていけるんだなあとさらに感心した。そう考えてくると自分が生きていくために口にするものすべて地球の恵みであり、太陽の恵みであり、宇宙の恵みなのかと思えてくる。

人間個人が他の人間と親しく付き合っていくには限界がある。個人差や付き合い方の度合いにもよるだろうがある分量が決められている。ネットや携帯が日常化し誰とでも簡単にコンタクトがとれるようになったが携帯に登録されている人たちといったいどれくらいの信頼関係があるのだろうか。メールをどんなに多く交換しても、携帯電話でどんなに回数多く話しても、実際に相手の表情や声を聞いて話すのとでは大きな違いがある。便利になった分だけ確実に何かを失っている。いろいろな手間が省け、便利で簡単になったが人の情は薄れてしまった。

そんな中で人間疎外が若者だけでなくすべての年齢層にまで蔓延し自己本位の凶悪犯罪が多発している。誰でもよかったといいながら他人を無差別に攻撃し殺傷したり、他人に攻撃を向けられないときは身内に牙をむく。秋葉原事件はそんな中で起きたケータイ、ネット時代を象徴する事件だった。容疑者もどんな形であれ世間から騒がれ善悪を問わずヒーローになりたかったのかもしれない。



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国際理解

ミャンマーでサイクロン、中国四川省で大地震が立て続けに起きた。犠牲者は数十万人を超えるだろうと危惧され、さらに感染症や余震による二次被害も懸念されている。さらに両国とも一党支配、または軍事政権によって成立している国家ゆえ、情報制限や他国の援助にも規制をかけているため犠牲者の数も被害者の数も増大しているのが現状だ。まさしく国家的危機に近い逆境だ。逆境に立たされたときこそ、素直で謙虚で冷静な判断力が求められる。それらが欠如すると逆境は卑屈を生み順境は自惚れを生む。卑屈から不満へ、不満から欲求へとエネルギーを持って変わるとき反乱、暴動、さらに革命とつながる。
人間は勝手なもので他人を恨んだりひがんだりすることはあるが、自分がどんなに恵まれた環境にいるか案外気がつかないことが多い。だからちょっとしたことで不平不満があふれ出し「キレる」日本人が多くなった。頭が「キレる」のなら国も発展し世の中のためになるだろうが、精神が「キレる」のではたまったものではない。せっかく恵まれた境遇も、これを自覚しないままに平生から安穏と無頓着に暮らしちょっとしたことに腹を立て大切な人生を使ってしまいかねない。

しかし、自分が恵まれた境遇にいることを自覚するには自分を外から見る第三者的な視野が必要とされる。自分がいつも真ん中にいて周りをきょろきょろ見回しているだけでは視野を広げたことにはならない。それでは自分よりももっといい境遇の人をみてうらやましく思ったり、自分より不遇の人を見て安心したりするだけに終始してしまう。視野を広げることは視点を変えることだ。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉通り子供には旅をさせたい。旅は自立への第一歩で大人への階段を上り始める通過儀式だと思う。旅からいろいろなことを教えてもらう。他人からああしろこうしろとあれこれ言われて勉強をしたり習い事をしたり家の手伝いをしたりするのはしているようで実はさせられているのだ。自分の意志で何をしたらいいか何がしたいのか分かるために旅をしなくてはならない。大人がうらやましく思えるような不安と期待、若さ、大胆さ、厳しさと優しさ、熱き情熱、それらが混沌としている中で未知の可能性を秘めていて欲しい。

幸いなことに日本は国際的に有利な立場にいるのでほとんどあらゆる国でビザなしで渡航できるし必要ならば簡単に発行してもらえる。日本は不況でさまざまな問題を抱えているといいながらも国際的見地から見れば十分に裕福な生活を送っているのだ。外務省が通達しているような危険な地域に旅をしなくてもいい。アメリカ、ヨーロッパ諸国、アジア、オーストラリアなど自分の足で歩き自分の目で見て、自分の心で友人を作ってもらいたい。

日本の若者は外側を飾るのは得意だが内面が未熟だという外国の厳しい批評がある。もちろん全員にあてはまらることではないが、傾向としてはあるのかもしれない。分不相応なハンドバッグや高級な化粧品、携帯電話にかなりのお金をかけてしまったり、またはそれ以上のお金を払って海外旅行をしているイメージがあるらしい。
インターネットが普及し情報化社会が進んだ現代だからこそ与えられる情報が操作されやすく誤った判断をしかねない。畢竟、さまざまなネット犯罪や事件が多発する。多くの情報源から自分のふるいにかけて真実を見極める心眼がこれからの時代必要とされる。そのためには外から与えられる情報だけではなく自分の経験、体験を通した生きた情報が自分の情報のウィルスチェック機能の役割を果たす。
世の中は広い。その広い世の中を狭い視野で歩んでいけば行き詰まり、途中で頓挫しかねない。視野が狭いということは判断力が鈍るだけでなく他人にも迷惑をかけることになる。それぞれの国や個人の立場を謙虚な精神で理解し、尊敬していくことが国際理解の基本なのかもしれない。



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情報価値

世界の都市での聖火リレーの報道がテレビ各局で放送されて、その様子が写し出される。聖火はたくさんの警備に囲まれてその周りを中国の赤い旗が取り巻いてチベットの旗は僅かに見えるだけでいったい何のためのリレーなのか。それはまるで現在の中国を象徴しているようだ。大量の中国人留学生を聖火コースに動員させて真っ赤な中国国旗で埋め尽くしていくやり方は言論、表現の自由を逸脱してはいないだろうか。北京五輪は中国の近代化、国際化のために必要な通過儀式だろうが、これまでのような国家的報道規制(中国ではインターネットの検索サイトが制限されている)や言論統制を自由化していかないと逆効果になりかねない。
日本のメディア報道も聖火の火が消えたとかどこを走っているかよりもチベット問題や台中問題、中国のシリアに対する武力援助など現実に起きている真実の報道を取り上げるべきだ。聖火の行方ばかりをカメラが追えば今回のチベット問題から次第に乖離していってしまう。

チベット問題
チベットの地位をめぐる問題。チベット仏教(ラマ教)という高度な精神文化を持つチベット人は17世紀以降ダライ・ラマを宗教・政治の頂点としてチベット地域を統治していたが、18世紀半ばに中国清朝はチベットを保護国化した。チベット人は清朝末期に独立を試みたが中国共産党に武力制圧された。1951年中国はダライ政府とチベットの平和解放に関する協定、チベット協定を締結したが大量の中国軍の駐屯、宗教弾圧などが不満を呼び、1959年に2万人が蜂起するチベット大反乱に至った。
ダライ・ラマ14世はインドに亡命し途中でチベット協定の破棄とチベットの独立を宣言し、10万人の亡命者(難民)がこれに続いた。これを機に中国・インド国境問題は紛争に発展しダライ・ラマはインドのダラムサラで亡命政権を樹立。一方、中国は1965年、チベットを自治区とした。
欧米を中心とする国際世論は、ダライ・ラマのノーベル平和賞(1989年)に見られるように、中国の人権問題に大きな関心を示している。(マイペディアより)

日本は島国だから情報伝達が遅くなかなか性格に伝わらないという時代錯誤的な感覚は日本では感覚的に理解し合えても国際社会では確実に遅鈍なる国と見られてしまう。インターネットで検索すれば数分とかからずさまざまな情報を手に入れることができる。国際化とはスポーツをして国際交流を図ることも大切な一面だが、個々の人が各国の文化、歴史、宗教などを正しく理解し尊重しあうことだ。正しく理解していくためにも、理解してもらうためにもメディア報道は重要な役割を果たさなければならない。メダルの数を増やすよりも世界各地で起きた内紛、戦争で犠牲となった死者の数をどうにか減らせなかったものか。

「なぜ勉強するのか?」新学期が始まって一ヶ月が過ぎようとしている。さまざまな環境の変化に戸惑いながらもある程度順応できたと思う。そこで改めて「なぜ勉強するのか?」考えてみよう。テストでいい点数を取るため、いい高校や大学に行くため、いい会社に入ってお金をたくさんもらうためなどいろいろあると思う。多くの人にとって勉強は過去のもの、すなわち情報知識になっていってしまう。今の情報化社会において過去の情報などほどんど無価値で意味がない。この時点でみんなも勉強のありかたを考え直さないといけないのです。有意義な勉強とは現在直面している問題を新しい観点から斬新な発想力を持って解決していくことです。映画「アポロ13」でクルーがトラブルに見舞われたときNASAから科学者たちが指示を出しあり合わせのもので残り僅かな電力を利用できる器具を作る。そういう応用の利く勉強こそこれからの時代に絶対必要なものだ。

今時代をリードしている会社に「グーグル」がある。インターネット検索であっという間に世界一の座に就いた若い会社だ。グーグルには至るところにホワイトボードがあり自分のアイディアを描き込んでいく。イメージがわかないときはゲームをしていたり、散歩していたり、食事(カロリー別に色分けされている)を取ったり自由だ。グーグルのすごいところはこちらがこんなものがあればすごいだろうなというものを先回りして提供しているところだ。試しにグーグルで地図検索してみるといい。地球上のある都市、町、さまざまな地形がスピーディーに立体的に映し出される。誰もが想像している以上の情報を出してくれるだろう。どんな高価で分厚い世界百科地図でもかなわない。
あなたはどう思いますか?



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逆算 期待する結果からプロセスを考える

新学期が始まる。さくらの開花とともに心機一転、今年度の目標を立ててみよう。クラスもまたは学校も変わり新しい環境の中で今年度の終わりにはどういう自分でいたいのかが目標となる。目標を立てるということは期待する結果だけを頭に思い描くだけではない。それを実現するためには何をしなければならないかを設定する必要がある。必要があればテレビを見る時間やゲームをする時間を減らし、覚えなければならないことは覚え、こなさなくてはならない課題は仕上げなければならない。

期待する結果を出すためには目標から逆算してルーティン(決まってやるべきしごと)を決めてそれを実行する能力と忍耐力が不可欠だ。他人から押しつけられたルーティンではそれを続けることが難しくやはり自分で意志決定をするべきだ。その上で周りの人の意見やアドバイスを受けるようにしたい。

長期に渡る学習計画はマラソンに似ている。その日の気温、湿度、風などの気候状況や自分の体調を考慮しながら何キロ地点までを何分で走り、どこでスパートを仕掛けるかしっかりした計画がなくては期待する結果は得られない。しかし、いいライバル(友達)はペースを作ってくれる。一人では完走できない距離も一緒に走るランナー、沿道で応援してくれる人たち(家族)の励ましによって実現できることは忘れてはいけない。

今はインスタントの時代、なんでも速いほうがいいと思われている傾向があるが、最初はゆっくり丁寧にしなければならない。次第に手慣れてきて素早く、能率よくこなすまで相当な時間がかかるものだ。

電子レンジで簡単に調理したり、コンビニエンスストアで買ってくれば、ある程度のものはなんでも食べることができる。要するに手間が省けて簡単な方が好まれる。しかし、その思考回路がインプットされていると逆算ができない。計算する前に解答が出ているようなものだから逆算する必要がない。

何か食べたいものを自分で作ってみる経験があれば食材に何を用意すれば分かるし、料理を始める前の下ごしらえの手間も分かる。最初は見よう見まねでもいいし、手伝う程度でもいい。いざ自分が一人で作ってみると必要な食材を買い忘れたり、下ごしらえに手間が掛かりすぎたりして予定が大幅に狂ってしまうことが分かる。その上味付けに失敗すれば料理そのものが無駄になってしまう。つまり、期待する結果を出すためにはそれなりの準備が必要でることを身をもって理解する。そして、それを等閑にすれば残念な結果になってしまうことは経験から学ぶしかない。そういう経験をした人が失敗から多くを学び次第に成功していく。

今日のインスタントの時代と少子化の時代にあっては失敗することもめったにないし、食べたいものは母親が作って目の前に出てくる。失敗する経験があまりないから学習以外の面でも支障が出てくる。ちょっとした失敗が大きな挫折感や屈辱感に感じられて過剰に反応してしまうか、それらに対してまったく鈍感になってしまう。

兄弟が多かった時代は毎日が失敗の連続であったろうし、親も一人一人をみている暇がない。昔の子供の方が失敗から多くを学び、自分でできることは自分でせざるを得ない状況が当然そこにあった。遊びにしても一人でできるゲームなどないから、自分たちで木を削ったり、土をこねたり、基地を作ったり、山へ行ったり、河原に行って遊んだり、さまざまな冒険があった。もっとおもしろくするためにはどうしたらいいか工夫したりお互いの考えを交換したりした。年齢の違う近所の子供たちが遊びながらたくさんのことを経験し多くを学び、心を成長させていった。温故知新、先人から学ぶことはたくさんある。



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貴重な青春時代から生まれてくるもの

外国人が日本に来て一番耳にする言葉が「はやく」だそうです。最近、インスタントの時代を反映してか瞬間的な結果を求めるあまり人間としての心の「ゆとり」が確かになくなってきたように思える。すぐ楽しめるゲーム、すぐにいつでもつながる携帯電話、メール。あまり手間のかからないインスタントフードや冷凍食品。便利さ安易さを求め、畢竟、傾向として全体が軽くなり速くなる。軽くなって速くなると当然さまざまな危険度が増す。車でも燃費をよくするために軽量化しスピードアップを図れば安全装置がまずはずされることを承知しておかなければならない。インスタントで安価な食品を求めれば安全性が危うくなるのは今回の中国産の野菜、食品を見れば分かりやすい。

しかし、もっと危惧しなければならないのはその危険を回避する術が失われつつあることだ。安全性の高い車を買うには当然値段の高い車を購入するしかないし、安全性の高い食品を手に入れるには国内産のしかも有機栽培や無農薬を選ぶしかない。つまり、自分の生命は金を出してでも自分で守れということだ。本来なら国内の無駄な道路や赤字ばかりを排出する天下りのための箱物を見直して、食糧自給率を増やし国民の安全を保証するべきだ。天下りのお役人や早期定年者にゴルフのクラブを農機具に持ち替えて国営の農業をしていだだくのがいいと思うのだが。世界一の長寿国が世界一安全でヘルシーな食品を世界に向けてアピールするなんてすてきだと思う。なぜなら工業製品は購入してもどんどん新しいものができて人間の購買意欲をいたずらに刺激し続けないといけないという資本主義の落とし穴にはまっていくが食品は宣伝の必要のない限りない魅力的な宝に見える。

「青春」という言葉も、今はなにかセピア色の昔の写真のようにノスタルジー(nostalgie:郷愁、懐旧の情)を感じさせる。青春はまさしく字のごとく青い春、言い換えればまだ来ぬ春をじっと我慢し、いよいよ春が来たときには今まで貯めていたエネルギーを一気に放出させる忍耐の時代なのだ。そこには将来何になるか分からない未知の混沌とした可能性がある。大きな夢を見て、それに向かって努力する若者の姿に年長者は羨望の眼差しを向け嫉妬さえ感じる。青春は本当に美しい響きのある魅力的な時代だ。

中学から高校生までの6年間で人間は身体的にも精神的にも劇的は変化を見せる。しかし、近年は精神的な変化があまり見られない。大人から見てうらやましいと思うような若者がめっきり少なくなった。皆無に等しい。一見勉強して努力しているように見えても、それは頭を鍛えているのであって精神的哲学的な成長が伴わないため精神が簡単にぐらつく。心技体の中心となる心が脆弱なままだ。

人間が本来の人間たらしめるのはこの青春の時期に多くのことで悩み、葛藤し自分なりに答えを出してきたからである。今日では若者がちょっと困惑し悩むとそれだけで問題になる。周りが大騒ぎしてこれが解答だから写せばいいくらいの勢いで若者をまくし立てる。「あなたは私(母親)の言うとおりやっていればいいのよ」が通じるのも子供が小さいうちだけで大きくなるとその神通力ももはや鰯の頭。子供は悩む時期にしっかり悩んで精神を鍛える必要がある。親が子供の代わりをしてあげてはいけない。「親」という字は手を出したくても出さずじっと我慢して「木」の上に「立」って子供を「見」守るという意味とナイフで身を切るように身近に接して見ていること。じかに刺激を受ける近しい間柄の意味もある。つまり、親は子供との微妙な距離感バランスが求められる。

おそらく人間は他の動物に比べると子供から大人になる時期がきわめて長くしかも周りから守られている。つまり社会全体がその時期の重要性を認知しているのだ。しかし、今日の若者の多くは自分たちが社会の将来のために守られていることを都合よく使い分け、甘い汁だけに預かろうとしている傾向がある。若者たちは社会が彼らを温かく見守ってくれているうちに全力を尽くして己の心技体を磨かねばならい。いつまでも社会が自分たちを暖かく受け入れてくれるなんてあり得ない。

自分の判断力を身につけさせ自分の目で真の価値観を持つことこそ人生における青春時代の意味なのだろう。人間の置かれた立場、視座において開眼(かいげん)する第一歩を踏み出す時期なのだ。
開眼:慧眼(鋭い洞察力のこと)を開くこと。仏教の真理を悟ること。一般に芸道などでさとりを開くこと。



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下降スパイラルからの脱出

今日の日本人は四人に一人が鬱や不眠症の悩みを抱えているそうだ。自覚していない人も含めればもっと割合も上がるだろう。それは下降スパイラルにはまってしまったからだ。*スパイラル(spiral:螺旋状の・連鎖的変動)現状に甘んじてその状態を維持しようとすると次第に「慣れ」が生まれ次に「飽き」になりそして「鬱」となります。その閉塞状況がまさに今の日本の現状を反映しているのです。下降スパイラルは政治、経済、教育、家庭、商業などありとあらゆる分野で連鎖反応のように浸食してきている。その閉塞状況が時代の流れに追いつかないであたかも追いついているかのように見せかけたのが日本中に蔓延している「偽装」の正体だ。

以前はマンネリという言葉で表せていたものが現代では病的なものさらには異常なことにまで意味を広げて解釈せざるを得なくなりそのマンネリという言葉自体が消滅しかかっている。
* マンネリ:マンネリズム(mannerism)の略。一定の技法や形式を反復寛容し、固定した型にはまって独創性と新鮮さを失うようになる傾向。
今は結果主義が主流であるから例えば、鬱病には抗鬱剤が投与され、不眠症には睡眠薬が投与されて万事解決のように思わされているが、もっと根本的な根の深い部分を探り出して解決していかないとすべての分野で悪循環のスパイラルは止められない。

ルーツを探る
今からもう30年以上も前になるが「ルーツ」という本が世界的ベストセラーになり映画化もされた。最近では「ルワンダの涙」や「ナイロビの蜂」「ダーウィンの悪夢」といったアフリカを題材にした映画も作られているのでチャンスがあれば見ていただきたい。日本は島国だからわからないで済ますのではなく島国だから余計に周りのことを知るべきだ。ルワンダでは1994年に内紛が起きて80万人が数ヶ月で犠牲となった。
* ルーツ:Roots アメリカの黒人作家アレックス・ヘイリーが自らの出自を7代にわたって遡り、さまざまな苦難を体験した一家の系譜をたどった記録小説。1976年刊。

何事においてもルーツを探すことは理解を深めることであり突き詰めていけばとても面白い発見もある。漢字もただ覚えるのはつまらないが漢字の成り立ちまで調べてみると案外楽しく記憶できる。例えば「凜」という漢字を調べてみる。稟の字の上部は屋根付きの囲い、下部は作物を意味する。作物を納めてしまい込むこと。一所に引き締めて納める意味を含む。扁のにすいは氷を意味している。冷たい氷に触れて心身の引き締まる感じをいう。昨年の世相を表した漢字「偽」は旁の部分で手と象を表している。人間が手で象をあしらって手なずけるさまを示す。人間の作為により姿を変える、正体を隠してうわべを繕う意味。「へえ、案外調べてみるとおもしろいんだね。」と面白いところまで突き詰めることが大切だ。雑学的な知識がいろいろなところで結びつき新しい情報、知識を定着させてくれるのに役立つ。英語で雑学のことをトリビア(trivia)という。これもtriは3を意味し、viaは道を意味している。三本の分かれ道、すなわち些細なこと、雑学的事柄を表すようになった。雑学といってしまえば本筋から外れてつい軽く見てしまいがちだが、ものとものを付けるには分子の細かい接着剤が必要なのだ。

自分のノートを作る
生徒のノートを見ていて気づくことがある。ほとんどのものがシャープペンシルを好み使って先生が板書したものをそのまま書き写している。または面倒くさがって適当に手を抜いて書いてしまう。そんな勉強していて面白くないだろうなと思う。なぜなら書き写す作業は想像力を必要とせずおもしろくない。
文字だけをだらだら書いていても記憶には直結しない。文字は記録するためのものであって記憶には適さない。記憶したいのならイメージ(絵)が大切。さらに言えば根っこを捕まえる(ルーツを探すこと)ことができればそれは各自のオリジナルなノートになる。
「へえ、こんなんでよく覚えられるね。」「変わったノートの取り方だね。」周りからそう言われればそれはもうあなたが変わった証拠。つまらないと思っていた勉強がおもしろくなったはず。
できないと思いこんでやらないより、できるかもしれないと思って探求する姿勢が人間の脳を活性化させ向上させる。



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確かな広がりを求めて 2008

2008年がスタートした。2007年の世相を表す漢字が「偽」であった。偽装、粉飾は去年に始まったことではないがとうとう食の世界にまで及んだ。しかし、いたるところに蔓延する偽はあまりにも多く、はたして真が存在しているのかさえあやしく思えてくる。去年はアメリカでサブプライムローンの破綻に端を喫し世界の株価が大きな煽りを受けた。さらに中国の原油需要が高まってさらなる原油高を生み出して1バレルあたり100ドルを超えた。

このままの流れが続くと労働賃金は抑えられたまま物価が上昇するといった本格的な格差社会に突入しかねない。日本でも格差が大きくクロースアップされてきているが諸外国と較べれば日本の格差はまだ小さい。世界の中心にいればいるほど格差の波は緩和される。アフリカ諸国や南米の国々ではまともに教育がなされていないことが現実である。ペンを持つより銃を持たされ武力、暴力で自分の力を誇示することを覚えてしまう。アフリカ諸国にはチルドレンソルジャーが二十万人以上存在する。

日本が島国であることを今年からは最大限に利用して大人も子どもも世界を知りたいという知的欲求を持たなければならない時代に移行した。インターネットなど通信網のハードは整った。あとは一番大切なソフトだ。世の中を知ろうという知の欲求が心から生まれなければ400年前の鎖国時代に舞い戻ってしまう。

現代の日本は国際化を謳いながらも実は内側に向かっている。鬱病や不眠症、ドラッグ依存症、不登校や引きこもり、家庭内暴力、多発する親族内での凶悪犯罪など暗い面ばかりが目立つ。インターネットや携帯メールなどを利用しているから表面的には広がりを見せているようだが人間のつながりは極めて個人的レベルで内側に向いている。携帯電話のない時代は連絡を取るにも失礼にならない時間帯を考えたり、家族の受け答えを通してから相手につながるといった手間を通して成立した。したがって友達の名前や声、性格、顔などは家族にも当然の情報として入ってきた。「メル友」はメールを通じてのただの知り合いだと言うことを早く分かった方がいい。

友達との信頼関係も、ともに分かち合った時間、空間を通じて初めて築かれるもので打ち出の小槌のように都合よくポンと出てくるものではない。人間の相互信頼関係が薄らいできてしまったためにすぐいじめだの虐待だのセクハラだの一対一の関係だけでことが大きくなってしまう。周りに人間がいるのであればそういった問題もうまく緩衝されていくはずだ。

人間には限られた量(人数)のコミュニケーションしかとれないということを忘れてはならない。情報量が増えたからといって諸手を挙げて歓迎するわけにはいかない。その情報の真偽が計れない。その盲点につけ込んだのがオレオレ詐欺であったりネット詐欺であったり霊感商法だったりする。いくらスピードの時代だからといって信頼関係は一朝一夕には築けない。だからつい自分の目を信じるよりもブランドを信じ、大きい企業を信じ、その結果「偽装」の犠牲者となってしまう。世の中に楽して儲かることはなく、流した汗の分、努力(我慢)した分だけの結果しか得られない。広い世の中を見ることによって今の日本の現状、個人の現状がまだまだ恵まれていることが理解できるはずだ。

「走った距離は裏切らない」2007年の東京女子マラソンで優勝した野口みずき選手が信条としている言葉だ。42.195kmを一歩一歩確実に走らなければならないマラソン選手だからこそさらにその言葉の意味は重く感じられる。2008年は勇気と信念を持って自分を成長させることをしてみよう。1年後に成長した自分に出会えるように、振り返ったら一歩一歩の歩みだけれど随分進んだと実感できるように。



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学習効果を上げる方法~直線から円へ

学習していて成果がでるということは学習した箇所を理解し、間違って解釈していた箇所が正しく補正されるということです。間違えることは大きく分けて2種類あります。一つは前述したように間違って解釈している場合、そしてもう一つは十分な学習もしていないで自分の予測というか感覚というかまたは勘といったもので解答を出してしまう場合です。
前者の方は再度学習することで自分の学習した箇所が不完全であったり誤解して解釈していたことに気付いて正しい解答が得られます。やっかいなのは後者の間違え方で、こういうタイプのミスを多く犯しがちな人は常にリスクを負って解答すること(ギャンブル)に慣れてしまっているのでその習性(性格)を変える必要があります。交通ルールをよく知らないで始めっからスピードのでる車で公道を走るのと同じです。まずは落ち着いてルールを学び、自分の能力を知り確実に安全な走行を心がけるべきです。

さらにこのタイプの人は場当たり的な学習をしてきているのでどこが分からないかも分からなくなってきます。「どこが分からないの?」と聞くと「全部」という返答が返ってきます。つまり、設計図のない家を建てるのと同じで、トイレがどうなっているか、台所がどうなっているか、リビング、収納、階段がどうなっているか造れば造るほど混乱してくるのです。その結果、家は傾き、水は漏れ、いつ崩れるか分からないのです。

このタイプの人の注意すべき点はまさか自分がそうだと思っていないところです。なぜなら部分部分は一見すると普通に見えてしまうからです。短い問題や比較的短い範囲の試験などでは得点ができても少し長めの問題や複雑な問題になると思考停止状態になりがちで広範囲にわたる試験になると得点がしにくくなるというのがこのタイプの特徴でもあります。

また学習のやり方で多く見られる特徴はとにかく試験に出るかどうかが一番の関心事で最小限の勉強で最大限の効果をねらう直線的な方法を採ります。直線的な方法であるが故、少しでも変化球が飛んできたりすると同じ種類の問題だと気付かず「先生、やったところ全然でませんでした」という感想が返ってくる。

全く同じ問題なんて出るわけはないし、万が一出たとしてもそういうタイプの人はおそらく間違える。得てしてこういうタイプの人の口癖は「面倒くさい」「何で私が(おれが)?」何事も今、流行の「そんなの関係ねえ」で済めばいいのだが・・・

それでは総合力を身につけるにはどうしたらいいか?それはリビング、台所、トイレ、そういった場所と場所の動線を考えなければならない。つまり広角の視野を持つ幅のある学習をすることです。社会科を学習するということは理科も学習していること、理科を学習することは数学も学習し、英語を学習することは国語、歴史、地理、文化をも学習することに繋がっているのです。

つまり基礎学習はすべて繋がっていて境界線があるようでないのです。前述した直線的な方法に対して丸みのある円形方法だと思います。円と円でどんどん面積を広げていきますと重なる部分ができてきます。その部分が動線です。応用力です。重なった知識は断片的なものから重層構造になってきて崩れにくく、その上にさらなる圧力のかかる学習にも対応できるのです。

目先の欲にとらわれず自分の知的好奇心にふたをしないこと。自分の基礎を造っているのだから面倒くさがらず落ち着いて重層構造の基礎を造り大局的な視野で物事をとらえたいものです。
第一次南極探検隊副隊長の西堀栄三郎さんの言葉より
何事も億劫がって面倒くさがって簡単に得た知識は役に立ちません。自分の足で自分の身体を使って苦労して得た知識が応用の利く生きた知識となるんですね。



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頭脳革命-秋の脳内ガイド

暑かった夏も終わりを告げ足早に訪れる秋の気配に驚かされます。そんな落ち着きのある実りの季節に自分自身を内省しさらにもてる能力を伸ばしたいものです。能力を伸ばすと言ってもそう簡単にできることではありません。具体的にどうすればいいかを考えることも能力を伸ばすためには大変重要です。ですから今回は自分で考えることを書き記せるような考えるヒントから始めます。
集中力とは? 文字通りに解釈すると「中に集める力」である一点に焦点を当てることでしょうが逆説的に考えると普段散らばって様々な用途で使っている力を一つずつ消していける能力ではないでしょうか? 分かりやすく説明すると直列つなぎの豆電球を数多く普段ある程度の明るさで使っているわけですが一つずつ消していくと点いている残りの豆電球が明るくなってきます。一つ消し、また一つ消していく毎にますます残った豆電球は明るさを増していくことは想像がつくと思います。
人間の脳も身体も電気で動いています。今あなたがしたいことのみに電球を点けられれば相当明るい照明が得られます。そのときはつまり周りの電球はすっかり消えていなければなりません。ラジオや音楽を聴きながら勉強や仕事をした経験があると思います。勉強や仕事がはかどっている時はラジオや音楽が耳に入っていないことに気づくはずです。自然とじゃまな電球を消していたわけです。逆に音楽やラジオに耳を傾けすぎると勉強や仕事は止まってしまうものです。
必要な箇所以外の電球を消すことによって自然と一点を明るくできる能力が集中力です。私たちの身の回りにはあまりにも豆電球が多すぎて消すことができないのではないでしょうか。テレビ、ゲーム、携帯電話、近くにいる友達とのおしゃべり、持っているペンを回したりと集中を妨害するのにはさまざまな要因があります。気が散るだとか落ち着きがないタイプの人は何をやっても長くは続かないし、大成もできないのです。
さあ、それでは集中して勉強するには? 
次に記憶力とは? 記憶するためにももちろん集中力は必要です。なぜなら記憶が写真のフィルムなら集中力はフラッシュまたはフラッシュを作動させるための電圧です。電圧が低ければそこで撮られる写真もぼんやりしてくるのは当然です。さあ、電圧も上げた。それでは記憶するためには何が必要でしょうか? それは繰り返しと想像力です。何度も何度も繰り返していれば自然に記憶できますが、つまり低い電圧でも長時間かければそれなりの写真が撮れるわけです。しかし、何度も繰り返す作業がいつもできるわけではありません。事実、できないことが多いでしょう。

そこで活用しなくてはならないのが想像力です。想像力といってもこれは記憶忘却防止装置ですから特別にすごい能力だと考えなくていいですが携帯やパソコンの普及によって自分の頭に入れておかなくてもそれらが記憶忘却防止装置の役目をしているので想像力は思いの外低下してるかもしれません。しかし、この装置がないと記憶は確実に薄れ最終的には忘却の海の底に沈んで二度と浮上しません。鎌倉幕府ができた年は?「いい国作ろう……」やルート2は?「ひとよひとよにひとみごろ」または「すいへいリーベ……」なども一般に知られている記憶忘却装置ですが、各個人が学習することは一般的てきなことばかりではないのでやはりそれぞれの装置が絶対必要不可欠です。今ここに何も関係のない事柄を10あげますから一分で覚えてみてください。
秋刀魚-ワイン-鉛筆-ファックス-物置-満月-ロンドン-宿題-スリッパ-さくら。自分の好き勝手な空想話を作って一分後にもう一度繰り返して言ってみてください。
暗記することが苦手だった人もう心配しないで大丈夫でしょう。あなたの空想の世界で遊べばいいのだから。
最後に理解力。これは一般には難しいと思われがちですが実は一番簡単。ガイドについて行けばいいだけの話。ガイドの話をよく聞いて楽しみながら目的地まで行けばいいのです。ただ難しいのがガイド選び。ガイドの話が面白く無ければつい話を聞かなかったり、ガイドの声が小さければ聞き逃してしまうこともあります。逆に話が面白くてたまには冗談も交えてみんなの気持ちを引きつけてくれるようなガイドであれば自然と「へえー、なるほど」ガッテンガッテンと納得してしまうものです。つまり理解力とはガイドの力量に多いに関係しているのです。
ついでに得点力。日本のサッカーを見ていても気になるのが得点力不足。なぜ得点につながらないんでしょうか。それはすべてのプレーに真面目に集中し過ぎているからです。常に集中していればどこかで集中は途切れます。人間の集中力は無限ではありません。有限です。それもかなり少量しかありません。大切なのはどこでの力を出すかです。普段は60~70%くらいの力でいいのです。試合でも試験でもいざというときが必ずあります。そのときに余裕として残しておいた三段式ロケット噴射のように30~40%の力を使ってください。
途中で覚え10項目もう一度この紙の裏に書いて見てください。きっと簡単にできますよ。



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失敗は成功への道

東京の浅草寺に行くとする。誰かに連れて行ってもらえれば無事に目的地に着くことができる。連れて行ってもらうことに慣れてしまえば、自分で調べようとする習慣はなかなか身につかないだろう。「また誰かに連れて行ってもらえばいいや」という考えが浮かんでくる。確かに一時的にはその方が楽だし確実に安心して目的地にたどり着ける。しかし、彼は次回一人で浅草寺に行けるだろうか?絶対に無理だ。おそらく目的地まで連れて行ってもらえる人を探すか、あきらめるだろう。

ここで目的地にたどり着くことができない原因が二つある。一つは連れて行く側の態度。出かける前に
十分本人に調べさせて行く手順をシミュレートさせてみる。そして行く先々のポイントを確認させることが重要である。案外本人のイメージとは違った場面があって修正もされていくはずだ。つまり、連れて行く側が次回は彼一人でも目的地にたどり着けるようにさせようとしているかが大切だ。

もう一つは連れて行ってもらう側の意識。「また連れて行ってもらえるだろう」という考えを早くぬぐい去ることだ。今の瞬間を大切にすることだ。同じ時間は二度と戻ってはこない。そういった意味での「また」存在しない。鴨長明曰く「行く川の流れは絶えずしてまた元の水にあらず」

自分で行けるところまで行ってみよう。とことん行ってみて右に行っていいのか左に行っていいのか分からなくなって、それでもどちらかに行ってみて正しい道を探してみる。そういった手間のかかる努力をしたものだけが目的地にたどり着ける。ぎりぎりのところまで行ってみる。そこで行き詰まって困った状態になってからが応用の利く知識や生きた情報となる。苦労しながらやっとの思いで目的地までたどり着いて初めて大きな充実感が感じられるだろう。そしてまた次の目的地に行くことも可能になるだろうし、そこから先へと脚を伸ばすことができる。さらに道に迷ったことでいろいろな発見をすることもある。

次回は誰かを連れて行ってあげて自分が発見したもっと面白い場所も案内できる。つまり失敗だと思っていたことが後になって思わぬ収穫となる。

面倒くさがって自分の労苦を惜しんでばかりいればたいした喜びもないし、何の収穫もない。「ああ、めんどうくさい」と言う生徒が増えた。手間のかかる面倒くさいことが一枚一枚紙を重ねるように自分を成長させることだと理解しなければならない。世界中どこを回っても予想を遙かに超えた手間のかかる面倒な建築物や作品が訪れる人を感動させているのは周知の事実だろう。

今日の生徒に多く見られる現象として失敗(ミス)することを嫌い思考回路を全面的に閉ざしてしまう傾向がある。自分のプライドに関わりのない世間話は他人に迷惑なほど大声でしゃべりまくるが、いざ自分が発言を求められると「間違えたら恥ずかしい」と周りを過剰に意識しすぎて自分の意見や解答を言えなかったり言えたとしても周りに聞こえないくらいの小声で発言をする傾向も顕著に見られる。シャープペンシルを好み、ちょっとでも間違えるとすぐ消しゴムで消して、あっという間に消しゴムの山ができる。それには様々な要因が考えられるが育て方や環境に原因がある。失敗から何かを学ぶ経験が乏しくなってきている。

自分のかわいい子供のために旅行鞄に荷物やお菓子を入れてあげて、靴下ををはかせてあげて楽しい旅行をさせてあげて自己満足してはいないか再考したいものだ。「かわいい子には旅をさせよ」の真の意味を理解しなくてはならない。



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自分のやり方で

島では、ネズミはどうして大きくなるのだろうか。それには捕食者の問題があると思われる。島という環境は、捕食者の少ない環境である。おおざっぱな言い方をすれば、一匹の肉食獣を養っていくには、その餌として百匹近くの草食獣がいなければならない。ところが、島が狭くて十匹の草食獣しか養えないとすると、肉食獣のほうは生きていけないという状況が出現する。つまり、島には捕食者がいなくなってしまうわけだ。こういう環境下ではネズミは大きくなっていく。
大陸ではゾウはなぜ大きいのだろうか。それはたぶん、大きければ捕食者に食われにくいからだろう。ネズミはなぜあんなに小さいのだろうか。それも捕食者のせいだろう。小さくて物陰に隠れることができれば、捕食者の目を逃れられる。偉大に見えるゾウも、できれば「普通のサイズ」の戻りたいであろう。ネズミにしたってそうだ。だから、捕食者という制約が無くなるとゾウは小さくなる。そして、ネズミは大きくなって無理のないサイズに戻っていく。-本川達夫「ゾウの時間ネズミの時間」より
人間も動物である限りこの生物学の「島の論理・大陸の論理」にあてはまる。もちろん島国の日本はかつては国民がみな平均的に知的レベルが高く、争いを避ける術を知り、多神教(アニミズム)で自然に逆らわず、無理のない生活レベルで満足してきた。しかし、そこに突如として巨大なトイザらスやスターバックス、マックなどの肉食獣が現れた。これらの肉食獣から身を守るためには「大陸の論理」を実践するしかない。これが企業で言えばM&A(企業吸収合併)によって会社を巨大化させて大陸からの肉食獣に対抗せざるを得ない。いままで幸福に暮らしていたネズミたちはその余波を受けてリストラされて大陸のネズミのように小さくなっていかざるを得なくなった。その「大陸の論理」がいまや島国の日本を駆け回ってすべての分野で影響を与えている。再チャレンジできないほど格差が広がりを見せ始めた。そのうえさらなる「不可解な大陸の論理」も虎視眈々と日本上陸を狙っている。
もともと「島の論理」のあった場所に「大陸の論理」を無理に代入したのだからうまく機能するはずがない。「偽装」「偽造」「粉飾」「疑惑」などの言葉もそれと同時に大量発生した。

戦争で街並みが焼かれ、今度は日本の伝統文化もずたずたに踏みにじられてしまった。時代の変化で済ましてはいけない。そもそもなぜ大陸の肉食獣が島国に出現したのか。それは大陸にそろそろ餌が不足してきたからではないか。7月29日(日曜日)の参議院選挙が行われ与党の大敗北という結果になった。それは小さなネズミたちの反乱である。
日本人はよく個性的でないと批判されてきた。それは島で生活していくための協調性という点においてはやや優柔不断に見えたり、議論を交わして相手をやりこめることが苦手であることが積極的でないと映るかもしれない。しかし、「大陸の論理」が日本中を席巻している姿は退廃的なほど画一化してどこに行っても大店舗だけが目立つ同じような街並みである。それが美しい日本かと聞いてみたくなる。人間も個性的であるようだが実は表面的な服装とかファッションだけがポイントで中身は没個性のかたまりではないだろうか。
今や、地球はどんどん狭くなり、大陸から島の時代へ移りつつある。日本はかつて黄金の島ジパングと言われるほど美しい国であった。日本人は普通のサイズに戻りたいというゾウの本音が分かって、つまり世界を見通して、自分らしく自分のサイズに見合った価値観を発見しつつある。巨大な「大陸の論理」に驚かされて動揺はしたものの日本は自信を取り戻してきていると思う。
巨大な大陸の論理に驚かされた大きな理由はまず相手の言語、文化、習慣などの情報量が不足していたためだ。これからの日本は国際社会の中でコンピュータのIC的な存在を目指すべきだ。そのためには学校教育で英語にとどまらず他の外国語を学ぶ機会を増やして国際理解を深めなければならない。
権力のあるものだけが再チャレンジできる国であっては「私の美しい国」になってしまう。



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学び続ける心 褒めて育てた結果が!

何かを継続してやり続けることはとても難しい。精神力を維持させることが困難だからだ。最初は誰しもモチベーションが上がっているから問題ない。しかし、慣れてきて飽きてきて次第にモチベーションが下がってくると継続しなくていい理由を見つけ始める。他にしなければならないことがあったからとか体調が悪かったからなど些細な言い訳を作り出してしまうのだ。
では継続するにはどうしたらいいのだろう? 継続して学び続ける中で喜びを発見することと自分の中の変化を感じることだと思う。最初は少しの努力で大きな喜びが得られ大きな変化も感じられる。それが次第に大きな努力でも少量の喜びしか得られず変化も少なくなってくる。しかし、どんな仕事でも習い事でも乗り越えなければならない壁がある。壁にぶつかるたびにあきらめてしまったり、もっと楽ないい方法があるのではと猜疑心を抱いて挫折してしまう。せっかく希望して入社した会社も数年で辞めてしまう若者が多くなった。
現代の若者の多くは「褒めて育てられることがよし」とされて育った世代だと思う。褒めて育てることは大変すばらしい理念だが多くの人が解釈を間違えた。たくさん叱って、やっとできたときに褒めて育てるという意味なのに大切な叱って、懲らしめての部分がどこかに行ってしまった。褒めて褒めて褒めまくって育てた結果がちょっとした挫折にも耐えきれないひ弱な人間を作り上げてしまったのだ。ちょっとした注意にも過敏ですぐキレるという精神状態になってしまう。バウ生心得の中にも謳ってあるように人間は懲らされてこそ教育されたことになる。


バウ生心得

青春はさまざまの可能性を含む混沌の生命の時でもある。なにになるかわからない。なにかになれそうだという気がする。さまざまの夢を抱き、ロマンチックになるのは誰にも共通した点だ。しかし、青春の夢は想像で終わることが多い。青春の夢は大切だが、夢を実現させるためには、どれだけの努力と苦痛が必要か、不幸にして若者は知らない。
気分としての青春に陶酔することほど危険なことはない。『懲らされてこその教育』という言葉があるが、精神の上に大きな重荷を与えられ障害物を設けられて、懲らされることが必要なのだ。自己を厳格に教育する時間と空間を持たなければならない。孤独と労苦を栄光として厳しく自己を鍛えるなかで目覚めた精神のたしかな独立が自己実現を達成させるのである。
今まで両親や教師から導かれるままに歩んできたのだけれど、今度は自ら道を求めて行かなくてはならない。自己の未来、自己の生き方については、どんな名著にも書いてないし、両親も教師も無力であることを若者は思い知る。自分で一歩一歩を生きてみなければならない。そういう冒険のうちにあって、若者は深く孤独になり本当の自分を発見する。そして本当の自分に出会えた者のみに夢を実現するチャンスが与えられる。

最初から素人や初心者にうまくいくはずがない。失敗に失敗を重ねてそこから工夫が生まれ上達していくのだ。先生や師匠に叱られて叱られて最後の僅かばかりの優しい言葉や眼差しを喜びとして大きな壁を乗り越えることができる。しかし、そこには師と弟の間に深い絆と愛情があってこそ成立する人間関係が必要不可欠なのだ。現代社会では深い絆より浅くて広い関係を求める傾向にあるのでより一層不安定要素が大きくなる。
さらに悪いことに『軽い』仲間は大勢いるが自分を認め支えてくれる友人がほとんどいない。周りを見ても軽く挫折してしまっているし自分一人で孤独に耐えていくのはつらい。教える方の立場としても真剣に叱ってもすぐに「もういいです。やめます。」ではとりあえずやめさせないようにしておくのが精一杯で真の師弟関係は成立しない。
最悪なのはそういう子供たちを育ててしまった親が何も気づかずにいることだ。何が悪かったか分からずに自分の子供が注意されたり叱られたりすると猛烈に反発する。こうなるともう手に負えない。または褒めて甘やかして育ててしまったと反省しても飼い犬に手を噛まれる状態で子供のいいなりになってしまっている親も多く見受けられる。子供が親に対して「ちょっと待って」と言うのも命令し主導権を握ろうとしているサインなのだ。



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脳内汚染 感覚の喪失を防ぐには

最近のニュースは寒々しくなるほど残忍性が高いのだが慣れというものは恐ろしいものでそれらが連続してくると感覚が麻痺してくる。「ああ、またか」程度にしか思わなくなる。凶悪犯罪や悪質な事件も次々に起こるためどんどん押し流されていって水に流したくなくても忘れ去られてしまう。日本人の持つ感覚の鋭さもどこへやら、毎日の事件が日本版ハリウッド映画を見ているようだ。
おそらく事件を起こす加害者も少なからず過激なハリウッド映画や俗悪なテレビ番組、雑誌などに感染してしまったのだと思う。通常の生活を営んでいれば人間の常識内でのモラルが働き脳内でストップがかかるはずだ。ちょっとした想像力があればある程度の結果が思い浮かび、自分を制御するホルモンが脳内で作用することになっている。想像力の喪失と無関心の増幅が日本の没落の第一の原因だ。

想像力の喪失の遠因は人間の思考を停止、または鈍化させてしまった環境にある。視聴率を追求するマスコミの過激報道、コメンテーターのステレオタイプの発言、芸術性のない一発芸風のお笑い番組、携帯電話などの必要以上の通信手段。暇つぶしにはもってこいのゲーム。分からなかったらすぐ答えを出してしまう教育、甘くなりすぎた親。社会環境全体が大きな流れとなってデカダンス思想に傾倒しているように思える。:デカダンス:19世紀末のフランスを中心に現れた文芸の一傾向。虚無的、耽美的で、病的、怪奇的なものを好む。
日本人は自由を与えられたのであって勝ち得ていない。だから自由のありがたさが分かりづらくもてあましている。戦後は自由などといっても仕事が第一優先、自由の前にやることが山積されていた。一気にデカダンスに進まずに済んだ。戦後の高度経済成長を経験し表面的には豊かになった日本人だが日本の伝統や文化や精神も随分と犠牲にしてしまった。食生活も欧米化したがそれによって日本の食文化までも浸食された。疾病も欧米化してそのための薬をまた欧米から買わねばならない。

同じことがこれからまた中国で繰り返されると大変なことになるだろう。彼らが経済的に豊かになると車を買い、肉を食べ、エアコンを使用し莫大なエネルギーを消費する。車を走らせるためには道路が必要になり地球上の地面がアスファルトで塗られてしまう。牛を一頭育てるのに5ヘクタールの牧草が必要とされる。それに伴って二酸化炭素の排出量も増え、地球温暖化は抑えきれない。地球上の毒素が人間にも感染し始めている。

無関心から脱却して感覚を取り戻すにはどうすればいいのだろうか。それは日々の生活の中で培われていくものだ。子供は必ずしも勉強をしていればいいのではない。勉強も生活の一部である。例えば夕食を済ませた後は食べ終えた食器を洗い、次にすぐ調理が始められるように整えておく。次につながる生活習慣が是非求められる。生活にも学習にもリズムが生まれる。子供の集中力は連続性のある持久力だ。集中力が途切れてくるとリズムが狂い始め、思考は停止状態になり、試験中にもかかわらずペンが止まってしまう子供も多く見られる。また最後の確認がおろそかになり凡ミスがなかなか改善されない。
試験勉強でもスポーツでも芸事でもその日時が設定されているものであればそれに合わせてプランを立てなければならない。何ヶ月前までにはこれを仕上げて、何週間前にはこれを仕上げて、何日前にはこれを仕上げるといった具体的な達成度を伴う目標が求められる。ちょうど山頂を目指す山登りに似ている。例えばBAUでは定期試験まであと2週間ともなればまずは教科書の徹底チェック、それから基本問題、そして応用問題へとすすみ、最終チェックは模擬試験で実力を養成するようにしている。そうすれば自分で納得のいく結果(パーフェクトに近い得点)が得られることだろう。しかし、それには連続性のある持久力が必要でそれが不十分であればそれぞれの段階で達成度が低くとどまってしまい結果もそれなりということになる。一つ一つの積み重ねが大きな結果となることを早く学ばねばならない。



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