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努力の本質

自分を追い込む力が我慢だと思う。勉強でも習い事でもスポーツでも才能と自分を追い込んだ分だけの努力(我慢)が相互作用しあって結果として表れてくる。たいした努力もしないでも人並み以上の結果が出せたりするのは、おそらくあり得ない。そういう場合は本人が取り組んでいることが本当に好きでかつ才能もあり、いかなる努力も本人は苦労としては捉えていない場合である。好きなことをやっているのだから苦にならないのは当たり前だ。好きなことだけをやっているなら努力という概念は存在し得ず、好きなことを犠牲にして他のことに専念しなければならないことが我慢するとか努力するということだ。

やりたくないことや好きでないことはやらなくてもいいという思想がいつの間にか日本中に蔓延した。さらにその思想がやりたいことや好きなことはなんでもやっていいという発想にまで行き着いてしまった。学校に行きたくなければさまざまな理由もあるだろうが不登校という一番単純な解決策を選択してしまう。嫌いな物があれば食べなくてもいいから好き嫌いが認められ、それが個性としてまかり通ってしまう。授業中に大きな声で話すのも欠伸をするのも鼻をかむのもトイレに行くのも水を飲みに行くのも携帯でメールするのもそれが本人のやりたいことなのだから何の悪気もなく何の躊躇もなく行動に移してしまう。一部の生徒によってなされるこういう行為は他の多くの生徒にとって確実に悪影響を及ぼす。そしてこれを制するだけの権限が教師には与えられていない。これが学校で起こっている現状の一部であることを認めざるを得ない。

義務教育の下になされる教育は子供に勉強を教えるだけでなく同じ程度の道徳教育や躾が施されるべきである。子供は教育を受ける権利があるということはそういうことだ。勉強を教える大前提としての基礎は道徳教育や躾の部分が大きい。しかし、結果主義とゆとり教育が主流となり義務教育においても道徳教育と躾の部分がお座なりにされてしまった。本当は道徳教育、躾が一番生徒に気を遣わなければならない部分で教師の神髄が問われる資質である。

勉強でもスポーツでもほとんどの人がプラトー(plateau):高原の意。技能の学習過程で一時的に進歩が足踏みする状態:を迎える。なぜなら自らの精神のバランスを保つために自分の努力の分量を計ってしまうようになる。つまり、人間の自己防衛本能に従って過度のストレスを避けるためだ。成績を上げるにはここからが最大の問題となる。ストレスを感じずにまたは最小限に抑えて努力の質を上げなければならない。しかし、そのためにはある程度の忍耐力が要求される。その忍耐力は小さいときにしか育てられない。幼いときの枝は柔軟でいかようなる風雨にも耐えられるが、いったん成熟してしまった枝は簡単に折れる。

プラトーからさらに止揚していくためには回りとの相乗効果で苦しい時期を乗り切ることである。マラソンで大勢が走っていたり、また多くの声援が沿道に飛び交うため完走できてしまうのである。すばらしいライバルに恵まれることも才能を伸ばす要因になる。

バウタイムズ08年11月号にも記載したが、心の内にもう一人の理想とするイメージが存在しなくてはならない。そのイメージに近づいたらまた新しい理想のイメージができあがりそのイメージに向かう。実際に理想とするイメージを持てるかどうかが人間としての存在理由としてあるらしい。現在の自分では満足せずにさらなる欲求によって突き動かされる。他人によって楽しませてもらうのではなく、自分が楽しむことによって回りの人たちにも楽しんでもらえる。その精神が時代をリードしていく原動力となる。



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