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木漏れ日のある大樹を目指して ~BAUの教えは土作りから~

生徒に勉強を教えていて、分からないところを分かるようにすることはそんなに難しくない。ただそれが生徒に定着したかどうかが問題なのだ。指導者は分からせたことに満足し、生徒は分かったことに満足してしまうことが多い。しかし、それは一時的な現象で、あと数日経てば確実に忘れ去られてしまう。ちょうど耕されていない堅い地面に栄養も水もしみ込んでいかないようにあっという間に流されてしまう。
勉強を始める前に十分な土作りをしなければ学習の本当の効果が得られない。しかし、この土作りは本当に手間がかかる。生徒の心を変え、生活態度を変え、さらになぜ学習しなければならないかを自分の頭で考えさせなければならないからだ。生徒は一人一人性格も違うため、土作りは大変な作業となる。頑固な土は1年以上かけて耕さなければならない。
本来なら土作りは家庭や幼稚園や小学校で済ませておいてもらうべきものなのだが、現実の問題として土が悪ければいい収穫が期待できない。現実は土だけ耕していればいいわけではなく、植物も育てなければならないから微妙なしかも絶妙なタイミングも要する。親や生徒自身も試験の結果を気にするであろうし、ある程度の自信(体力)をつけておかなければならない。親は地表に現れた植物が上に伸びて行くのを見て一喜一憂することが多いだろうが、根っこの部分がどのくらい下に伸びたかも考慮して欲しい。指導者はまず土の性質を考えて、それから根っこの張り具合、それから地表の茎の太さ、葉の色や大きさを見なければなりません。土の質が良くて、根っこがしっかり張れていれば、地表のことはほとんど見なくても分かるようになります。現代は結果至上主義の時代、とにかく速く結果を出すことが求められる。親も子供に「速くしなさい」と繰り返し子供も「何でもいいから速くしておけばいいや」くらいの安直な短絡思考に嵌ってしまう。試験前にワークブックの答えを写してとりあえず提出なんて言うのがこのタイプ。しかし、彼らはまだ、やるだけましで未提出の生徒も数多くいる。学校の先生も口うるさく言わないし、放っておけば何とかなると思っている。今日から親は子供に「もっとゆっくり丁寧にやりなさい」と言ってみてはどうだろう。そして我慢して待っててあげると子供が変わります。

BAUでは生徒の心(土)を文字で見ることが多い。

堅くて肥えてない土は文字が汚く乱れている。そして、やたら書くのが速い。そういう生徒が必ず言われるのが「もっとゆっくり丁寧に字を書きなさい」だ。目の前で見ているとそこそこ丁寧に書くのだが、その場を離れると、またすぐいつもの慌てふためいたように文字がノートに書き殴られる。
授業をしていて板書すると、それを早く書きたくてたまらずに、まだ大事な説明の最中なのにもかかわらずペンを走らせている生徒の心も同じところに原因がある。早く済ませておけば叱られずに済むというトラウマが彼らの心を掻き立たせ、ペンをひたすら走らせる。大事なことを聞き漏らしているのだから根っこが伸びているはずがない。当然、学校ではいちいち注意もされずに授業が進められていくだろう。
さらに学習意欲の低下、欠落といったさらに根の深いところに原因があることが多い。負けることに慣れすぎてしまった結果、競争する意欲や自分に対してもチャレンジしようという克己心も失せてしまっている。こういった生徒は心のケアからしなければならない。高く跳ぼうと思わないのだから、持ち上げる方は重くて、なかなか思うように援助できない。先ずは、自分から高く遠くに跳んでみたいという意欲があって、そこに持ち上げる力が加わることで大きな成果が得られる。
教育とは生徒を変化させること、昨日、今日さらには明日の生徒が自分の信念を持って変わっていくことだ。今まで、弱々しかった植物も日に日に逞しくなり、将来、雨風をしのぎ、強烈な日差しを温かい木漏れ日にする大樹に育って欲しい。



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蓬の中の麻?

日本製のテレビは高品質で多機能、画像もきれいで録画も簡単。今やその技術は、3Dの領域まで達し、さらなる進歩を遂げている。しかし、それとは逆行して番組内容の程度の低さはもしかしたら、世界一かもしれない。質を落とす原因としては視聴率競争がある。視聴率が下がるとスポンサーがつかない。するとすぐに打ち切り。手っ取り早く低コストで視聴率を稼ぐために、重用されているのが今の「お笑い芸人」と称される人たちだ。
少し、名前(コンビ名)と顔が知られると芸でなく、トークで番組を作り上げる。俗に言うバラエティー番組だ。彼らの隣には局アナを配置してさらに低コストを計る。因みに子供の学力が高いことで知られているフィンランドではバラエティー番組というものがなく、討論番組、ニュース番組、ドキュメンタリーが大きな割合を占める。親子でそういう番組を見てさまざまなことについて話をする。家庭が子供に教養を身につけさせるのが当たり前なのだ。
CMの前にもったいぶるように映像を止め、CMの後にまた映像を繰り返す手法も辟易する。芸人のトークもただの内輪話に終始しているようでまったく面白くない。または彼らをどこかの国に行かせて危険なことや、演出的にうけることをやらせて視聴率を狙う。テレビの制作者は本当に面白いと思って作っているのだろうか不思議に思えてくる。
視聴率を稼ぐためにマスコミは挙って世論調査を行う。政府の支持率が何%下がっただとか、政治と金の問題で辞職すべきが何%だとか数字を並べ立てて、それが民意であるかのように書き立てる。そして、それを裏付けるようなテレビの街角インタビュー映像が何度も流され、さらにテレビのコメンテーターが国民の代弁者のような顔で追い打ちをかける。こんなのを四六時中、洗脳のように見せられたらどんな政権も、政治家もひとたまりもない。
そんな中、鳩山首相が辞任してしまった。というより辞任に追い込んでしまった。マスコミがこれは叩ける、すなわち視聴率や購買部数が取れると思ったターゲットは徹底的に追いかける。政治報道も小泉政権あたりからわかりやすい、人受けするキャッチーな言葉がもてはやされ、バラエティー番組の体をなしてきた。
マスコミが発表する数字はいくらでも操作がきくことを理解していないとマスコミに呑み込まれる。世論調査にネガティブな要素ばかりを事前に聞かされてから回答すればネガティブな反応が起こる。せめて、ポジティブな要素も取り入れるか、もしくは何の刷り込みもなく調査しなければ信憑性が薄れてくる。人間は数字に弱い。日本人は風評に流されやすい。納豆やバナナ、心太など思い出されるが、街角で赤いシールを貼っていく調査らしきものもかなり胡散臭い。

マスコミが受験戦争といういかにも物騒な言葉を生み出し、さらには受験地獄という怖い言葉まで持ち出して、詰め込み主義が悪の権化であるかのように報道した。そして、政府もマスコミもゆとり教育を無批判に積極的に導入してきた。日本の教育の改善点は時代の変化とともにあったろうが、国際レベルではトップであった。それを最悪の状態に改悪してしまった失政は傷が深い。子供たちがだんだん勉強しなくなり、学力が下がっているにもかかわらず政府とマスコミは学力低下と意欲低下を黙ってみていた。子供の世界は競争させないでのびのび育てましょう、しかし、その一方で大人の世界はアメリカ型の超競争社会になっていくという温度差が広がり始めた。
マスコミ関係者にしろ、政治に携わる人にしろ、彼らは一流大学を出ている、いわゆるエリートだ。そのエリートが勉強しなくてもいいと世間には公言しながら、自分たちの子供たちはアメリカンスクールやインターナショナルスクールに入れて、アメリカやイギリスなどに留学させている。グローバルな世界で生きて行くには英語の他にさらに中国語やフランス語、ドイツ語、ロシア語などが必要だと分かっているのだ。
子供たちに現実を見せ、真実を知らせ、だから何をすべきかを考えさせることがマスコミや親、指導者の使命だ。子供にこれが出来たら何を買ってあげるということも、目先の手っ取り早い視聴率稼ぎと同じで効果はすぐ消える。逆に子供の持つ本当の好奇心や向上心を削ぐこととなり、何かの代償がないと行動に移さないという怠惰な性格を作ってしまう。
子供が純粋な学びたいという心を育てられない国は品格のある国とは言えないだろう。日本が麻の中の蓬になる品性を具することを菅新政権に期待したい。



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幻想と現実

小さい頃からいろいろなことをやらせてもらえる子供が多くなった。スイミング、ピアノ、絵画、書道、サッカー、野球、テニス、空手、柔道、英会話など数え上げればきりがない。親の立場からすると、一度始めたことはなんとかある程度までやらせたいと思うかもしれない。
しかし、誰にも向き不向きがあることを理解していないと無駄なお金と時間をかけていることになりかねない。出来ないことを見つけ、この分野では才能がないからあきらめることが将来を見極める大切な判断となる。これも出来ない、あれも向いてないと一つずつ可能性を捨てていく。それが己を知ることになるし、それが大人になっていくことだ。
子供には無限の可能性があるというのは美辞麗句とはまでは言わないが、すべてが神業のように出来るわけがない。人間、出来ることより出来ないことの方が多いのだ。いろいろ出来ないこと、苦手なことを見つけて振り分けて残ったモノが自分の居場所である。誰しも簡単には、イチローや浅田真央、石川遼にはなれないのだ。彼らはチャレンジしたものと才能が幸運にも若い時期に一致していた。
誰もが、たいした努力もなしにあれも出来る、これも出来るはずだと勘違いしているところに現代社会の危うさがある。その誤解に拍車をかけているのが携帯やネットだろう。それらは、小さな社会の窓口から大きな社会をのぞかせてくれて幻想的な可能性の夢を見せてくれる。しかし、世の中はマンガや映画のようなストーリー展開というわけにはいかない。
いろいろなことをやってみてこれなら何とか続けられるかもしれない。そういったものが見つけられればいいのである。親も自分の子供を客観的に見るべきで、彼らの才能を見極める冷静な判断力が必要だろう。「好きこそものの上手なれ」が当てはまるケースが珍しいのだ。

本当のチャレンジは他人に与えてもらうものではない。自分で戻ることのできない人生の航海に出航することだ。簡単に帰れるのはチャレンジではない。苦しくてつらくて、幾度もあふれ出る涙をこらえて、遠く故郷を思えども帰る場所などない、頼れるのも自分だけという状況を乗り越えて初めてチャレンジと言える経験となり、その人の宝となる。親もそこまで我慢する覚悟が必要だ。子供が大変そうだったらいつでもすぐに救いの手をさしのべるのは、百害あって一利なしだということを肝に銘じた方がいい。
私事で恐縮だが、15才の時に試験を受け、アメリカに留学が決まった時はなんでも自分でせざるを得なかった。それが当たり前だった。パスポートを取得するにも自分で自転車で前橋県庁まで行って申請し、後日またそれを自転車で受け取りに行く。パスポートに貼り付ける写真も一人で写真館に行かなければならない。当時はイエローカードといってさまざまな医療処置をしてもらわないと留学ビザが取れなかった。一人で自転車で前橋中央病院まで行って破傷風や日本脳炎、天然痘などの予防接種を受けなければならなかった。
オリエンテーションを受けるために東京の代々木オリンピックセンターまで何度も足を運ばなければならなかった。経費を最小限に抑えるためにもちろん鈍行、2時間かかって新宿まで行くのでそこでも英語の勉強が出来た。朝の5時の始発に乗って明治神宮のベンチで英語の勉強をまた2時間くらいしてからオリエンテーションを受けた。それでも英語力が足らないと扱きおろされた。
当時の為替レートは1ドル250円くらい。家族が渡米用に工面してくれたお金が10万円。ドルに換算すると400ドル。現在で言えば4万円程度の価値だ。それが日本の国際的な位置づけだった。節約しても必要経費や何やらで400ドルは2ヶ月もたなかった。2ヶ月後には自分で仕事を見つけていた。

「かわいい子には旅をさせよ」という名言がある。今はそれをかわいい子にはすべて準備万端にしてあげて、お金を持たせ、さらにはクレジットカードや世界対応の携帯電話まで持たせて旅行させてあげるのごとく勘違いしている親が多い。江戸時代までは一度、旅に出ることは再び戻ることのない死を覚悟してからの旅であった。そしてひとたび旅から無事に生還できた時人生観もドラスティックに変わり、本当の意味での人生を歩み始めるのだ。




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未来を切り拓く力~開拓者精神

何もないところで自分のちからで何かを作り上げていく。

開拓者精神と言えば普通、アメリカ新大陸に渡り、そこで先住民の協力を仰ぎながらも自分たちの町を造っていった。道を造り、学校を造り、教会を造って、時間があれば友達の家を造り、次第に町を創造していった。そういう過程を想像する。

未来を創造することは未来を約束された若者の特権だろう。しかし、未来を保証された日本の若者が将来を見なくなった。自分たちの将来を語らなくなった。夢や希望を捨て始めた。今日、多くの日本人が携帯やインターネットに何時間も費やしている。メールをやりとりしたりやゲームを楽しんでいるかもしれない。または新しい情報を得ているのかもしれないが、それらは最新の過去のニュースだ。過去の大量の情報から知識を得て、どこのお店が安いとかどこのレストランがおいしそうだという短絡思考に陥って情報に振り回されてしまう。

他人の流す情報も参考にはなるだろうが、危険もあることを承知しないといけない。携帯を持っ多くの中学生、高校生は自分をコントロールできないで片時も携帯を手放すことができない。携帯だけが自分と友人、ひいては自分と世間をつないでくれるツールとなってしまう。日本の携帯は多機能で世界でも有数のクオリティーを備えている。しかし、その普及率は世界的にはほんのわずかでしかない。つまり、日本人が必要だと思わされている携帯の機能も世界の人々はそこまで要求していない。日本人は多すぎる機能を備えた高額の携帯を買わされているのだ。

過去ばかりに目がいくから将来のことに気がむかない。とりあえず自分に関係ないから政治にも関心がない。当然、若者の投票率も低い。投票率が低ければ政治自体、若者に対して無関心になってくる。無関心というのは将来大きなつけが回ってくることだということを不幸にして若者は分かっていない。

子供時代は開拓者精神を学ばせなければならない時期だ。
そのためにはモノを与えすぎてはいけない。足らないくらいがちょうどいい。足らないから我慢することを強いられ、工夫することを学び、努力することを覚える。親はこのことを肝に銘じて欲しい。しかし、現実は子供がつまらなそうにしているとテレビを見たいだけ見せ、ゲームを買い与え、好きなだけやらせてしまう。それでは工夫や努力、忍耐を学ぶどころか少し不満そうにすれば何でも与えられるというわがままでたちの悪いキレやすい性格をつくってしまう。こういう性格の子供は学習にも向いていないし友人関係もうまく行かない。自分の好きなことはするが嫌いなことはしないので友人からは次第に敬遠されるだろうし、学習面でも偏ってしまう。

たいていの場合、成績が不振なのは勉強が難しいからではない。勉強のしかたが分からないのは我慢がきかず工夫して覚えることができないことが原因だ。分からないところを教えるのは簡単だがそれを点数に反映して、結果を出すには子供にもう一度最初から開拓者精神を体験させなければならない。親に考慮して欲しいのは成績の数字(点数)だけでなく、自分の子供の心の変化だ。数字という結果ばかりに目を奪われているようでは、子供を冷静に見ることはできない。心に変化をもたらすことができれば結果は自然についてくる。親にも我慢が必要だ。

大人が若者に嫉妬する時、それは彼らが目を輝かせて未来を語っている時だ。金はなくても意気揚々と未来を切り拓く姿勢、そしてさまざまな困難を若者のパワーで乗り越えていくたくましさ。坂の上の雲を目指すような純粋な輝く目は、若者に与えられた贈り物なのかもしれない。



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走馬燈~甘いキャッチフレーズ

最近、海外旅行はずいぶん便利なった。行きたい場所を旅行雑誌や代理店、またはインターネットで調べ、日数や予算、オプションなどを伝えればあとは出発地点に行きさえすればよい。「憧れの~」「魅惑の~」や「極上の~を満喫」などの甘いキャッチフレーズに誘われて、旅行をする人も多いだろう。出発地点の空港に着くと係の人がいて参加者からパスポートを集め、それを搭乗券に変えて戻ってきて名前を点呼しながら案内パンフレットとともに参加者にお渡しする。現地に着くとまた別の係の人が「~ツアー様」と書かれた札を持って出迎えてくれる。そして、大型バスが空港から全員を乗せて各ホテルまで送迎。係の人がホテルでもチェックインの手続をしてくれる。万事順調にいくのが当たり前。

「魅惑の~」に誘われて実際に現地まで来ては見たが回り中、日本人でせっかくの海外なのに日本語が飛び交う。異国情緒もあったもんじゃない。現地のガイドさんの日本語の説明をなるほどと聞いて、「kokode oshashin o otorikudasai」と写真を撮るのを促され、それじゃあとばかり記念写真を何枚も撮ることになる。連れて行かれるショップもレストランもすべて日本語が用意されていて何の苦労もしないで買い物も食事もできる。

旅行をしたあと、どんな記憶が残ったかというと曖昧模糊としていてあまり実感がない。せっかくあれだけ見て回ったんだから、もっと心に残る印象があっていいはずだと考えるがいっこうに思い出せない。たくさん撮った写真を眺めてみるが、友達と一緒のピースサインばかりが目立って肝心の旅の情趣などはどこにもなかったりする。道に迷って、現地の人と片言でもいいから彼らの言葉で話をしたり、電車の中で蜜柑をもらったりとか、日本のお菓子を勧めるだとか、そういう自分からした行為があって初めて、そこの空気を感じることができる。

自分から何もしないでじっとしているままで、目に映る景色が次々に変わっていくようなおもてなしのような旅行は実はイリュージョン、幻なのだ。この走馬燈のような現象が今は日本中に蔓延している。ただ甘い言葉に乗せられ、バスや飛行機に乗せられているだけでは、一見美しい光景が目の前を過ぎていくが、それは映像の世界と同じで実存しない。目の前にある風景が実存するためには、自分の足で大地を一歩一歩、踏みしめて前進するほかないのだ。

今日、危惧されるのが実在と虚構が混在し始めたことである。デジタル化が人間のアナログの感性を崩し、人間の領域を陵駕し始めた。デジタル化によって微分から瞬間に社会が移行し、人間から想像力を奪い、仕事も奪った。数字だけが社会を支配し、その数値によってすべてが計られるようになり、医療、経済、教育、エンターテインメント、あらゆる分野で数字が主役となった。現実の人間の生活とかけ離れたところで社会が動いている。

竹中平蔵元財務大臣と小泉元首相の掲げた構造改革がデジタル化に拍車をかけた。「痛みに耐えて」と国民に訴えたがそれが「永久に」だとはほとんどの国民は思わなかった。
貧乏人は虚構で生きていかねばならず、さらにその子どもは事実上、階級闘争という試合にも参加できなくなることが懸念される。

インターネットの普及も日常生活において便利になった側面もあるが、同時にたやすく同病相憐れむ仲間を捜せるようになった。そして、弱者はさらに弱く、強者は弱者を見つけると徹底的に叩きのめすダブルスタンダードの場となった。

「転がった分だけうまくなる、氷にたたきつけられた分だけ強くなる。あとは自分を信じるだけ」キム・ヨナ選手の言葉は今の時代、国境を越えて心に響いた。



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